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手作りパンとお金の価値

数ヶ月前のこと。
働いてお金をいただいて、そのお金を使うことがただの消費としか思えない時期があった。

仕事のストレスを仕事で得たお金を消費することで発散しようとしている、そんな感覚。

何がきっかけだったのかはわからない。
しかし、一度そう思ってしまうと今まで楽しかった時間も虚しく思えてくる。

自分の趣味や娯楽に費やす時間はもちろん、友人と過ごす時間さえも。
友人と会うこと、話すことは以前と変わらず楽しい時間だった。しかし、その時間を得るために何かにお金を使う行為は消費だと感じてしまった。

これまでカラフルに見えていた景色がどんどんと色を失って味気ないものになった。
そんなふうに思ってしまう自分に嫌気がさした。

同時に、
何をするにもお金が必要な社会、
手に入れるお金を増やしたほうが選択肢が豊かになり、人生そのものも豊かになると言わんばかりの情報で溢れている現実
から逃げたいような気持ちになる。

大げさかもしれないけど、資本主義というものに辟易している自分がいた。

ある日、本屋でこの本に目がとまった。

ここ数年パン作りが趣味になっているので、「パン屋」というワードが目に飛び込んできたのだが、本を手にとって中をパラパラと眺め、きっとこれは今読まなきゃいけない!と直感で思った。

そして、この本を読み終えて、その直感を信じてよかったと感じる。

少し前まで私がうんざりしていたお金の価値、在り方に対して、この本は新たな考え方を示してくれたから。

この本で書かれているように、

一番お金が回るやり方は、どんどん買って、どんどん捨てる、そうやってものをぐるぐるとハイスピードで回す方法

しかし、そうして世の中が物で溢れてしまうとその物を手に入れるありがたさやその物がどんな道を辿って自分の元へやってきたのかは見えにくくなってしまう。

また、こんなふうにも書かれている。

過程が失われた買い物は、ただの「ものの移動」でしかない

著者の平田さんが言うように、物を手に入れる過程にこそ満足感や幸福感があるのだと思う。

友人にいつもの感謝の気持ちを込めて手作りパンをプレゼントした時のこと。
「お店で買うよりも断然おいしい!」
と嬉しい感想をもらった。

ただ、あくまで素人の作ったパンである。
美味しさを機械で数値化できるのなら、素人のパンがお店のパンに勝てるとは思い難い。

そうであるならば、私の作ったパンと一般的にお店に並ぶパンの違いは何か。
それは、パンを受け取る友人を想って作ったということ。
そのパンがどんな想いでどんなふうに作られたのか、その過程に想いを馳せられるということ。
それが簡単に手に入れられるお店のパンにはない特別感をもたらし、パンそのものの美味しさを超えて、満足感や幸福感につながったのではないか。


また平田さんはこんなことも言っている。

毎週しゃべりに来て何も買わないで帰られるよりも、月に一度そっとお金を払ってものを買ってくれるほうが、よほど「好きだ」「必要だ」という気持ちが伝わってきます。
うまく人と話せなくても、「お金」がコミュニケーションの道具として機能してくれる。

友人に届けたパンはあくまでプレゼントで、お金を介してはいない。
しかし、お金と物を交換する時も、その物に込められた想いを感じて、心を満たせるお金の使い方をしたいと私は思う。
お金には物と交換する以外の価値もあるのだと信じたい。

「消費」=悪ではないと思っている。
しかし、「ただの物の移動」にお金を使っているような感じが私の虚しさの要因だったのだと思う。
目の前のものを大事にする感覚を失いたくない。

それは来年の4月から始める島暮らしで確かめたい感覚でもある。
都会より相手の顔が見える環境。
お金を使って手に入れられる娯楽の選択肢が少ない環境。
そこに身を置いた時、私は何を思うのか。

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