脚気と白米食の歴史(前編:飛鳥~江戸時代)
脚気(かっけ)という病気を日本史の授業で耳にしたことはあるだろうか?
明治から大正にかけて日本全国に広く蔓延し、結核とともに2大国民病に位置付けられていたことでも有名である。
本記事では、そんな脚気と白米食の歴史について解説していく。
そもそも「脚気」とは?
脚気(Thiamine Deficiency)は、ビタミンB1の欠乏による疾患で、初期には末梢神経・中枢神経の障害により下半身を中心に倦怠感が引き起こされ足元がおぼつかなくなり、重症化すると心不全で死を引き起こす。
(※補足)「脚気を調べる際には膝を叩く」という話を聞いたことがあるだろうか?通常、膝頭の真下を叩くと足が無意識にはね上がるが、反応しない場合は下半身の末梢神経に何らかの障害が生じている可能性があり、脚気を調べる際に、この膝蓋腱反射が利用された。
脚気と白米食の関係性
お米の胚芽部分に多いビタミンB1は、玄米から白米に変わる精米過程でその殆どが取り除かれてしまうことで知られている。
「大量の白米(主食)と貧素な副食で腹を満たす」といった栄養学的に偏った食事スタイルの場合、慢性的なビタミンB1欠乏状態に直面するリスクが存在していた。
ビタミンのビの字も知られていない時代に、”皆が毎日食べている普通の食事”がまさか命を落とす病気に繋がっているとは、きっと誰も一人も想像していなかったであろう。
日本の脚気の始まり(飛鳥末期~奈良初期)
奈良時代まではまだ日本には医学書がなく確かな歴史的資料が存在しないため、脚気の始まりを特定するのは大変難しい。
ただ、『日本書紀』や『続日本紀』の中に脚気と一致する症状の脚の病気が記載されているため、飛鳥末期~奈良初期とする説が有力である。(その論拠は以下の3つとされている)
538年の仏教の伝来以後に肉食が禁じられるようになり副食が貧粗になったこと
5世紀頃から米搗き(※玄米をついて白米にする作業)が行われるようになったこと
610年に高句麗の僧の曇徴が碾磑(穀物を挽くための、水力を利用した臼)を推古天皇に貢上したこと
上層階級での脚気の流行(平安~安土桃山)
平安時代になると天皇や公卿などの上流階級を中心に白米食が拡がり脚気が流行した。
歴史書や上層階級の日記だけでなく文学書にも脚気の話が登場している。たとえば『源氏物語』『落窪物語』『宇津保物語』『枕草子』などで脚気の症状が言及されており、その流行が見てとれる。
この上層階級での脚気の流行は、鎌倉、室町と時代が進むにつれ将軍、幕府重鎮にも流行が拡大していった。
一般の武士や町人への流行(江戸)
江戸時代の元禄年間には、江戸において一般の武士や町人にも白米食が普及して脚気(※「江戸煩い」)が流行し、享保年間には大阪・京都(※「大阪腫れ」)にも広がり、天保以後は地方都市でも流行した。
地方の大名や武士には、江戸などの都市に長期滞在すると次第に体調を崩し、ひとたび故郷に帰るとケロリと治ってしまうといったことが頻発していた。こうした背景から「江戸煩い」などという言葉が生まれた訳である。
(なお、農村部では米は年貢に納めるため主食には出来ず、アワやヒエなどの雑穀が主体だった。したがって脚気に悩まされることは少なかった。)
上層階級での流行も深刻であり、徳川将軍家では、三代家光や十三代家定、十四代家茂も脚気による心不全で病死している。当時の江戸では、脚気専門の医学書が無数に制作されていたことからも、将軍から庶民まで皆が頭を悩ませていたことが見てとれる。
明治時代になると近代医学が導入されていくが、それに反して前代未聞の脚気の大流行が全国的に発生する。脚気は、人口3000万人の明治時代に毎年100万人以上の患者と数万人の死者を出すほどの猛威を振るうことになるが、以降は中編で解説する。