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こんな世の中なんだから、きれいごとくらい、きれいであれ。

「なんか“きれいごと”だよね。
読者も馬鹿じゃないから、こんな嘘読みたくないと思うよ」

辛辣な意見をもらったのは、10年近く前のこと。辛辣ではあったけれど、私はその言葉をそのまま受け取り、傷つくこともなく、抵抗も持たず、聞き流した。

信じれば叶う
努力は必ず報われる
頑張っていればきっとわかってもらえる
運命の人が現れる
いつか白馬の王子様が迎えに来る

昔の偉い人が残した数々のきれいごとは、今も、誰かの心を支えている。当時から私はそれを分かっていて、でも言語化できなかった。ただ、繊細すぎてめんどくさい私の心が、あの辛辣な言葉にひとつも傷つかなかった理由はあったはず。私の書いたきれいごとには、当時まだ評価されるほどの形はなかったけれど、パキッとした輪郭のある明確な意志が宿っていた。私は意図的に自分の言葉できれいごとを描いていた。

きれいごとは、きれいごとである意味がある。

私は最後まで諦めず、きれいごとを言い続ける大人でありたい。


小学4年生の時。どんなに強く信じても叶わないことがあると知った。信じたことは叶わず、頑張ったのに報われず、きれいごとはきれいごとのまま終わった。

きっかけは割愛するけれど、私の人生に節目を打つには充分な出来事だったし、私の家族もそれから少し変わった。惨事が起きたわけでもなければ、悪意によって誰かが傷ついたわけでもない。互いが互いを愛するから増す悲しみが、私たちの心によく刺さった。

それからしばらく。

幼い間はきれいごとを口にする大人が嫌いだった。そんでもって、きれいごとを信じて疑わない同級生の子供は、もっと嫌いだった。信じたいものを信じることなく、ささやかな願いさえ己に許さず、愛を否定するふりをして、尖っていた。はずかしい。

でも今は余裕で言える。
30も過ぎ、生まれたばかりの甥っ子に際限なくお金を使いたい正真正銘のおばさんに成長した私は、あの頃よりもずっと強い。

あの頃、本当は誰よりも心の中で強く愛を信じ願っていたし、きれいごとで背中を押してほしかった。今も、世界のどこかに魔法はあると思っているし、運命の誰かが人生に登場する日が待ち遠しくてたまらない。


事実、きれいごとは誰も救わない。

きれいごとなんかに力はないし、きれいごとなんか言わずに強く生きられるのなら素晴らしいと思う。

きれいごとを声高らかに叫ぶ稀有な大人は、すさまじい強運と想像を絶する努力によって築かれた数奇な人生の中で、たまたま信じた願いが叶い、たまたま努力が報われた珍しい人間たち。世界に生まれる大抵の子供たちが信じるきれいごとは、いつの間にか、あるいは明確なきっかけを経て、サンタクロースと同じく消えてなくなる。

だからって、きれいごとを「ただの嘘」と同列にするなんて、
それは、冗談でしょう。

きれいごとはきれいごとでしかない。

うん、ごもっとも。

でも、きれいごとを信じて言葉にする意思を持つ強さは、どこかで誰かを救っている。

額に傷を持った少年が両親から愛されていたことを知る「魔法世界」。愛する人と暮らすために足を手に入れる「人魚」。選ばれた者の願いをなんでも叶える魔神が住む「ランプ」。

そんな物語が今も誰かを救い、誰かの希望になり、枯れそうな心に光を灯してる。

緻密な構成を懸命に保ちながら、世界中のあらゆる技術と才能をもって、何万年何千年も時を越え、きれいごとは描かれ、この世に残されてきた。

きれいごとに力はなくとも。

きれいごとを信じ進もうとしたとき輝く心や魂には、全てをひっくり返す力が宿ることを多くの人が知っているから。純粋にきれいごとを叫べる稀有な大人たちよりもずっと多くの人たちが、その事実を知っている。

それを信じるだけの奇跡がこの世には溢れている。

愛する人と出会い何億何千の必然的で偶発的な細胞分裂の果てに小さな新しい命が生まれたり、何十回もの挫折の末に夢を諦め暇つぶしに始めた仕事が人生に新しい目標を与えたり、つまらない道を絶望しながら歩いていたら野良猫が大あくびを見せてきて久々に笑えたり。そういう奇跡がこの世には溢れていて、その全てが誰かが信じたきれいごとの成れの果て。

そんな素晴らしい奇跡の源泉を「ただの噓」でまとめてしまうなんて、そんなの「大人」でも何でもない。

大切な人を亡くしたり。自分の人生の残りがあまりに短い事実を突きつけられたり。たった30年ぽっちの私の短い人生の中じゃ、まだ経験したこともないほどの悲しみを抱えた人に向かって、きれいごとを突き付けるような真似は出来ないし、しない、けれど。

けれど、もしも自分にそういう悲しみが訪れて。

大切な誰かが明確な意思を持って、悲しむ私にきれいごとを言って聞かせてくれたなら、私はその必死の愛を全力で受け取りたい。一度は怒っても、相手を嘘つきだと批判してしまっても、いつか、それが私に向けられた、かけがえのない愛情だとちゃんと気付きたい。

もしも私の家族や大切な友人や愛する恋人にどうしようもない困難や悲しみが訪れて、私がその人を楽にしてやる術をひとつも持たないなら、私は意思を持ってこの世のきれいごとをかき集めた、世にも美しいきれいごとを毎日伝えると思う。
 叶うから願おう
 信じよう
 幸せになろう
 未来は明るい
 あなたの努力は必ず報われる
理由をいくつも添えて、喉が枯れるまで伝える。そしてきっとその人よりも強く、それらを信じ続ける。

絶望や悲しみがこんなにも簡単に生まれてしまう世の中で、きれいごとなんていうハリボテが力を持たないことくらい分かってる。でも、どんな技術や能力や権力やお金をもってしても叶わない願いを前に、きれいごと以外何をもって立ち向かうのか?
愛や魂の存在すら証明できない無力な数字や科学、やわなハートを突き刺す正論や正義が、心や魂を支えてくれるほど力強いとは思えない。

そんな時、きれいごとくらい、最後まできれいじゃなくて、何を希望に生きるの?

きっと、10年前私が描いたきれいごとには、きれいごとに宿る本当の想いを表すほどの強さも、美しさも宿ってなかったのだと思う。
あれから10年。
きれいごとを恨みたくなる経験を、たくさんした。
それでも私はきれいごとがきれいであることに意味があると信じてる。

意思のあるきれいごとを手離さず、これからも生きていく。

もしもきれいごとを「きれいごとだ」なんてばかにする人が現れた時には、
「そうなの。きれいでしょ」
って笑顔で言ってやれるくらいのきれいごとを描けるように生きたい。

こんなに簡単に汚れる世界だから。きれいごとぐらい、どこまでも、きれいであれ。

生きていれば、必ず良いことがある。
絶対。

きれいごとを信じて生きる純粋な頑張り屋さんの姿ほど美しい姿はないんだから。

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