落語(14)関白全焼
◎「火事場の馬鹿力」というものは本来誰にでも備わっている能力のようで、人間追いつめられれば本当に自分でも信じられないほどの超人的な力を発揮するということがあるようです。ことに女性の方がそうした場合にどうもお強いようで…。
お夕「あ、おはようございます、お松さん。あ、お富さんも」
お松「(洗濯しながら)あら、お夕ちゃん、おはよう。もう、井戸端会議始まっちゃってるわよ。さあ、あんたも早くお入んなさい。ほら、みんなー。お夕ちゃん来たわよー。……もう源さん仕事行ったの?」
お夕「ええ、ついさっき。ねじり鉢巻に法被着て」
お松「さすが。絵に書いたような大工の源さんだね。そりゃそうと源さん、夕べも随分威張ってたわねぇ。もう、壁一枚だから筒抜けよ」
お夕「あ、それはどうもご迷惑をおかけしました」
お松「いや、あんたが謝ることないわよ……ねぇ、お富さん、お宅にも筒抜けだったでしょう?」
お富「いや、こっちだって別に何も盗み聞きしようって訳じゃないんだけどさ、こんな貧乏長屋の薄壁一枚じゃ、仕切りがあっても無いのと同じだからね。今、隣りが何をやってるのか手に取るように分かるわよ。で、夕べは源さん、何をあんなに怒ってたのさ」
お夕「もう、お恥ずかしい限りなんですけど……夕ご飯の時にあの人が『おい、アレ持ってこい』って言うんですよ。で、アレじゃ分からないから『アレって何ですか?』って聞いたら『アレったらアレだろ』って言うものですから一応醤油持ってったんです。そしたら、『違うよソレだよソレ!』って言うものですから、今度は塩持ってったんです。そしたら、『馬鹿野郎! ナニだよナニ。ナニ持ってこい!』って言うものですから『あなた、ナニって何ですか?』って言ったら、『何てめぇこの野郎! ナニったらナニだろーっ!』って言うものですから、もう分からないから砂糖とみりんと酢と胡椒と辛子と味噌とぬか漬けと全部持ってったんです。そしたら『てやんでぇべらぼうめ!』ってちゃぶ台ひっくり返しちゃったんです」
お松「あらまぁ、そりゃ酷いねぇ。で、結局何を持ってこいって言うのさ」
お夕「よくよく聞いたら箸が無かったみたいです」
お松「ああ、そういうこと。箸が無きゃそりゃ食べられないものねぇ」
お富「だけどさ、それにしたって箸くらい箸って言ったらいいじゃないのさ。たった二文字だよ?」
お松「それもそうよねぇ。そんなもん言ったからって別に減るもんじゃないし。源さんも変な所ケチよねぇ……で、お夕ちゃん、それからどうなったの?」
お夕「そしたらあの人、すっかり不貞腐れちゃって。『もういい! メシなんかいらねぇ! いらねぇからアレ持ってこい!』って」
お松「また始まったよ……。で、今度は何だってんだい?」
お夕「ええ。私も分からないので『アレって何ですか?』って聞いたら、『ソレだよ!』って」
お松「またソレだよ……」
お夕「『ソレじゃ分からないから何なのか教えて下さい』って言ったら『ナニだよ!』」
お松「アレソレナニしか言葉を知らないのかね、あの男は……」
お夕「『もう、ナニじゃ分かりませんよ。ナニって何なんですか?』って言ったら、『てめぇーっ!』って枕投げてきた」
お松「何だい、蜷川幸雄みたいだねぇ……そりゃ、とんでもない鬼じゃないか……で、結局何を持ってこいってぇんだい?」
お夕「酒だって言うんです」
お松「また二文字だよ……。そんな、酒もアレもソレもナニも大して変わりゃしないじゃないか」
お夕「でもね、お松さん。まだ二文字ならいいんですよ。我が家にはその上の一文字というのもあるんですから」
お松「一文字ぃ!? 一文字で会話するのかい? そりゃ、一体どんなのがあるんだい」
お夕「例えば『き』って言ったら『キセル取れ』ってことです。『ま』って言ったら『枕取れ』ってことです。『り』って言ったら『了解』ってことです」
お松「何だい、それじゃまるで令和の若者じゃないか。源さん、ああ見えて意外と先見の明があるんだねぇ」
お富「ちょいと、それ先見の明って言うのかい?」
お夕「こないだなんて私を呼ぶのに『た』って言うんですよ。私、夕日の夕で『お夕』じゃないですか。だったらどうして『ゆ』って呼ばないのかなと思って聞いたら、『女の分際で名前に漢字なぞいらん! カタカナで充分だ!』とか言うんです」
お松「ん?……何だかややこしくなってきたねぇ……つまりどういうことだい?」
お夕「つまり、夕日の夕ってカタカナのタに見えるじゃないですか。だから『お前は女なんだからお夕(ゆう)じゃなくて、おタ(た)だ。だからそれを略して《た》だ。分かったか《た》。いいか《た》。おい《た》。た、た、た、た、た!』」
お松「随分よく喋るじゃないか。そんなに喋れるんだったら最初からフツーに喋りゃいいのにねぇ」
お夕「まだまだ他にもあるんですよ。例えば『あー』は『あー暑い』、『うー』は『うー寒い』、『おー』は『おーシャンゼリゼ』」
お松「何だいアーとかウーとかオーとか……まるで乳飲み子だね。そのうち『パイパイ』とか言い出すんじゃないのかい?」
お富「それにしてもチョイと源さん亭主関白ぶりが過ぎやしないかい? いくらお夕ちゃんが若くて年の差がひと回りもあるからって男尊女卑もいいところだよ?」
お松「確かにそうだ。そういつもいつも大人しくしてたんじゃ相手もつけあがる一方だからね。たまにはビシッと言ってやったらいいんだよ」
お富「そうさ。あたしだったらウチの亭主が『箸が無い』なんて言ったら、『手で食え』って言うよ」
お松「そうだよ。お夕ちゃんもいっちょ、『手で食えこの河原乞食! 猿松! ドブネズミ!』くらい言ってやったらいいんだよ」
お富「そうよ。もしまたちゃぶ台ひっくり返そうもんなら、今度ぁ亭主ひっくり返してケツに敷いて座布団代わりにしてやりゃいいんだ」
お松「何か物を投げてきたらねぇ、構うこたぁねぇ、襟首つかんで箱根山の向こうまで投げ飛ばしてやれ!」
お夕「は、はぁ……。私にそんなこと出来るかしら……」
*
源三「おい! おい! アレ持ってこい」
お夕「あ〜もう、また始まった……あ、はーい……え〜と、アレって言うのはたしか箸だったわね……はいはい、ただ今……て、これがいけないのよね。ここはひとつビシッと言ってやらないと。ちょ、ちょっとね、あなた。あなたねぇ、箸が無いんだったら、そのお手で……お手でお食べになったらよろしいんじゃないでしょうか? この河原乞食!……のような、歌舞伎役者のように二枚目のあなた!」
源三「おいお前、何一人で喋ってるんだよ。箸はあるんだ。アレがねぇんだ。アレ持ってこい!」
お夕「え、ちょっと待って。今日は箸あるのね。じゃ、アレって何なのよ。えーと、アレがソレでソレがナニだから……そうだ、酒だ。酒を持っていけばいいのね……はいはーい、今お酒お持ちしますからねー……て、これがいけないんだわ。これだから益々つけあがるのよ、あの人は。ここは心を鬼にして……ち、ちょっと、あなた……あなたね、ちゃぶ台ひっくり返せるものならひっくり返してみなさいよ。そんなことしたら私があなたをひっくり返して、で、その横に私もひっくり返って……キャッ、あなた何するの、こんな所でもう。ご飯食べ終わってからでいいでしょ。ちょっとあなた! まだ早い!」
源三「何言ってんだ、お前は……。おい、早くアレ持ってこいって言ってんだろ! しまいにゃ枕投げるぞ!」
お夕「フン、投げれるもんなら投げてみなさいよ。そんなことしたら、私だってあなたの襟首つかんで箱根山に……箱根山を……一個買ってあなたに差し上げるわ」
源三「何をさっきから一人で喋ってやがんでぃ。もういい! メシなんかいらねぇ!(ガッチャーン)」
お夕「キャーッ! あなた……まさかの二夜連続でちゃぶ台返し?……酷い……」
源三「うるせぇ知るか! おめえが悪いんだろ! もう俺は寝る! 起こすなよ!」
お夕「(泣く)うううう……何でこんなにツラい思いしなくちゃいけないの……私、そんなに悪いことしてるかしら……こんなに一所懸命尽くしてるのに……ああ、帰りたい。お父っつぁん、おっ母さん……」
*
お夕「ちょっとあなた! 起きて! 起きて下さい!」
源三「う〜ん……うるせぇな……起こすなって言ったろ……静かにしろい……」
お夕「そうじゃないんですよ! 火事ですよ、火事!」
源三「う〜ん……家事は女の仕事だろ……うっせえな……黙ってろ……」
お夕「何言ってるの、あなた! この半鐘の音が聞こえないんですか?」
源三「んあ?……寺で法事でもやってるんだろ……」
お夕「あなた今、夜中ですよ! もう早く起きて下さいよー! 早く起きないと逃げ遅れますよ!」
源三「うっせぇな……ったく黙ってろ……亭主に口出しすんじゃねぇ……」
お夕「……(キレる)……やいてめぇ! こんちくしょう! 三崎のマグロじゃあるまいし、いつまでもゴロゴロゴロゴロ寝腐ってけつかりやがって! てめぇ、この地に根ぇ張ってニョキニョキニョキニョキ上に伸びてくつもりかこの唐変木! どうせだったら中途半端なところでやめんじゃねぇぞ! 樹齢三千年四千年目指す覚悟がねぇんだったら、あたいが根元っから引っこ抜いてネズミの巣に放り込んでチュー太郎の歯ブラシ代わりにするぞ、この腰砕け! いいか、よく聞けよ! 黙っててやりゃあ付け上がりやがって言いたいこと言やぁがって! こちとら、ならぬ堪忍するが堪忍と思ってるから五十歩百歩譲って耐え忍んでやりゃあ、二百歩も三百歩も先から唾飛ばしながら絵に餅書いたような机上の空論で講釈垂れやがって畜生! 女だと思って舐めくさってやがると手痛いしっぺ返しで針のむしろの上でしょんべん漏らしながら一生泣いて詫びたって許してやらねぇくらいの修羅の巷見せてやるからな! おう、その時になって後悔するなよ! こちとら大体がまだまだ十八、十九の娘盛りだ! この、男ばかりがゴロゴロ多くて女の数が少ない江戸の町でもって、あたいなんざぁ言っちゃ悪いがちょいと外歩きゃ黙ってたって男がゾロゾロゾロゾロ金魚の糞みたいに付いてくるくらい引く手数多なんだ! そこ行きゃあ顔もイマイチ、稼ぎもイマイチ、歳も決して若かぁない、寿司にわさびが足りねぇような田楽にからしが足りねぇような宙ぶらりんなクラゲ野郎のてめぇなんぞとは、そもそも住む世界が違うんでぃ! それをここの大家がウチのお父っつぁんと竹馬の友だってんで『ウチの店子(入居者)で顔は悪いが腕はいい、但し、からっきし女っ気がねぇからいつまでも独り身じゃいくら何でも張り合いがねぇだろう』ってんで、つきたくもねぇ三つ指ついて三三九度の盃交わしてやったんじゃねぇか! それを何だい! いざてめぇと一つ屋根の下で暮らしてみりゃあ、一丁前に亭主関白気取りやがって、俺より先に寝てはいけない、俺より後に起きてはいけない、米は芯を残さず歯ごたえ残せ、酒は人肌熱くもなしぬるくもなしって、一体てめぇは何様だい! どの口でもってそんな偉そうなことが言えるんだい! 呆れて目糞鼻糞耳糞が親類会議開いて一家心中すらぁ! それでも、こちとら大家の面子潰しちゃいけねぇと思うから下手に下手に出てやりゃあ、調子づきやがって散々ぱら威張り散らしやがって! いばり(小便)だったら憚り(便所)でしてくりょってんだ、このシメジ、なめたけ、つくしんぼ! あたいはねぇ、弱い者いじめとゲジゲジは大嫌ぇなんだ! てめぇみてぇにちょいと気にくわねぇことがありゃ、女の腐ったのみてぇにすぐヘソ曲げてプンスカプンスカ不貞腐れるような、男の片隅にも置けねぇアベコベの『男オンナ』にゃあ、金輪際メシなんぞ作ってやる義理ゃあないよ! てめぇなんか叩っ斬るなんざぁ、訳ねぇんだ! それが嫌ならとっとと起きやがれ、この泥亀!」
源三「…………終わった?」
お夕「『終わった?』じゃねぇよ! 何グズグズしてんだい! 早く起きろってんだよ! この伊左衛門! 土左衛門!」
源三「わ、分かった分かった……起きる起きる……逃げる逃げるから……あ痛っ!(壁に激突)」
お夕「バカ、そっちは壁だよ! 入口はあっち!」
源三「あ、ああ、あっちか……暗くてよく見えねぇんだ……痛っ!」
お夕「今度は火鉢に蹴つまずきゃあがった……ったくトロいねぇ! え? 足が折れた? 折れるわけないだろ、それくらいで! ほら先に出てな! あたいはタンス担いでいくから! よっこらしょっと!(箪笥担ぐ)……ちょいとアンタ何やってんだい、こんな所で! 上がりがまちで転んだ?……ったく、ウスノロだねぇ! ほら、掴まりな!(片手で抱え表に出る)……あら、お松さん。お富さんに大家さんも……あら長屋の皆さんお揃いで。ご無事でしたか? 火は今、どの辺で?」
お松「火はもう消えたよ。向かいの八百屋」
お夕「あら本当だ。あ〜良かった。これはこれは皆さん、この度はお互い様におめでとうございます」
お松「それがそう素直に喜んでいらんないんだよぉ。向かいの火は消えたけど、こっちはしばらく燻りそうだ」
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