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#26 親の思い込みメガネを外してみる

「私にはできない」

「私は他の人より劣っている」

私は何をやるにしても、いつも自分に自信がありませんでした。
そして、常に「恥」の感情を感じていました。

これらは、私の育てられ方がかなり影響していると思います。

「あなたは何もできないね」
「どうして他の子はできるのに、あなたはできないの?」
「みんなできているのに、あなただけできないなんて恥ずかしいよ」
「あなたはどうせやってもできないから、やらなくていいよ。」

私は、こんな言葉をかけられて育ちました。

車の運転もそうです…。

「あなたみたいな子は運転したら、みんなの迷惑だよ。何か危険なことがあっても、すぐに対応できないでしょ。みんなの迷惑だから、大人になっても免許取らない方がいいよ。絶対に事故るよ。」

母たちの何気ない言葉の数々は私を深く傷付けたし、大人になっても、何かをチャレンジするときの強い制限になりました。

どうしても車を運転する必要があったのに、「みんなの迷惑。運転したら事故るよ。」の言葉が頭からずっと離れませんでした。

大切な息子の命を乗せて車を運転するのが、本当に怖かったです。

母は、他の人が当たり前にできることが、私にはできないと思い込み、さらに私の頭に何か問題があるとずっと思っていたみたいでした。

私は、人と比べられるのが大嫌いでした。
「○○ちゃんはできるのに~」
「お兄ちゃんはできるのに~」

って母に言われた時点で、母の言われた通りには絶対にやらないって意地を張り、他人と比べて怒るような母には絶対に屈しませんでした。

母は母の当たり前を、当たり前のように私に押し付け続け、私はそれに反発し続けました。

私が大切にしていたものは、多分、体感覚です。

暇さえあれば逆立ちをしたり、園庭では連続逆上がりをしていたり、側転し続けたり、プールに一回転しながら飛び込んだり、クルクルまわって遊ぶのが大好きでした。


風が顔にあたる感覚や、雨に濡れる感触…。


私の世界はいつもキラキラして楽しいのに、わたしにとってはどうでもいいことでいつも母に怒られました。

たとえば、私が幼稚園の頃…

母から「冷蔵庫からピーマンをとって」と頼まれると、私は「緑のやつ?」と答えました。

私の中でピーマンはピーマンじゃなくて、緑のやつって名前だったからです。
「ピーマンはピーマンでしょ。ピーマンがどれか分からないの?」
「だから、緑のやつでしょ?」

ピーマン=緑でちょっと苦いやつ。

…これは“緑のやつ”なんだけど、誰がピーマンって決めたの?
どうして私がこれをピーマンって言わなきゃいけないの?
どうしてお母さんはピーマンって名前で私が覚えていると思ったの?
緑のやつは緑のやつでいいじゃん。

母は、私のそういうところが大嫌いでした。
それはピーマンって名前なの。最初にピーマンを作った人がピーマンって決めたんじゃないの?
ピーマンって名前を覚えなきゃ、恥をかくのはあなたでしょ。“緑のやつ”って言っても誰にも伝わらないんだから、ちゃんとピーマンって名前で覚えなさい!

またある時、

母が算数の勉強を教えてくれていたんですけど、
「ミカンが○個、リンゴが○個あります。あわせて何個でしょう?」

目の前にミカンもリンゴもないからわからない。
どうしてミカンもリンゴも目の前にないのに数えないといけないの?
どうして算数の問題にはミカンとリンゴが出てくるの?
どうしてミカンとリンゴを合わせて私が数えないといけないの?
それを数えたら私はどうなるの?
どうしてそんな質問を私に聞くの?
誰がなんのためにそれをやらせるって決めたの?

突然押し付けられるように、全く興味のないものをやらされるのは嫌でした。

私が納得できないことは一切やりたくありませんでした。

「問題を作った人が決めたんでしょ?そこに疑問を持つ方がおかしいよ。黙って素直に受け入れてやりなさい」
って母は私を叱りました。

「お兄ちゃんは、2歳になる前から野菜の名前だって覚えていたし、教えなくても何でもできるのに、どうしてあなたは幼稚園生になってもできないの?おかしいよ。」

私は、怒られてへそを曲げる。
そして、母に人と比べられて怒られたことは絶対にやらない、なおさないって決めていました。

だから母は、いつも私のことを「あなたは素直じゃない。可愛げがない」って口癖のように言い続けていました。

母には全く理解できないことでも、子どもの頃の私にはちゃんと理由がありました。
でも、それを上手に伝えることはできませんでした。

小さな私には、大切な私の世界があった。
でも、誰にも理解してもらえない。

私の疑問はいつもみんなにバカにされる。

誰が決めたルールかも分からないのに、どうして私がそれに従わないといけないの?
誰が決めたの?
何のために?

だけど、それを口に出すのはいけないこと。
私の発言はすごく馬鹿げているから、恥ずかしいしみんなに笑われる。

こんな風に私の心の奥深くにインプットされていました。

どうして?
何で?
何のために?

今も私の思考は変わらない。

「どうして?」「何のために?」
この謎を解くのがすごく楽しい。

昔の私と今の私、ちっとも思考が変わっていなくて、本当に面白いなって思います。

私が子育てをやり直していくと、母にも大きな変化がありました。

「あなたが小さな頃はあなたのことを全く理解してあげられなかったけど、あの頃の疑問が今の学びにとても役に立っているね。お母さん、もっと早くあなたが大切にしていることを理解してあげられるお母さんだったら良かったのにな。面倒くさいって思わないで、もっとあなたの興味を持っていることに関心を持ってあげられたら良かったね。お母さんの考えをあなたに押し付けて、それが出来ないからっていっぱい怒ったり否定してごめんね。あなたに向いている学問に今は出会えて本当に良かったね。お母さんはあなたを心から応援しているよ。」

母からの言葉を聞いて、子どもの頃の私も一緒に満たされていくのを感じました。

きっと、子どもの頃の私は、母に私の世界を否定して欲しくなかったんだと思います。

そんな私を受け入れて、そんな私に興味を持って愛して欲しかった。

私はずっと母から「素直じゃない」って言われ続けてきました。
だけど、「愛梨さんは素直だから~」って何人かの人に言われる機会が増えました。

私が素直だと思われるなんて、心の底からびっくりしました。

私みたいに素直じゃない人間はこの世の中にいないって言われていたのに、素直って言ってくれる人がいるなんて…。

でも、その時はじめて、「素直じゃない」って言われて、素直にそれを信じるくらい、私って素直な人間だったんだなって気付いて、母から言われ続けた呪いの言葉がフッと消えました。

それから、母に

「あなたは子どもの頃から本当に素直じゃない」
って言われる機会があったから、

「私ほど素直な子はいないよ。素直ですねって何人もの人に言われるから。そんな風にお母さんには見えていても、他の人には見えてないみたいだよ。」

ってサラリと母に言い返したら、母もしばらく考えこんで
「確かに…そうね。あなたは見方を変えたらとても素直な子だったのね。」って納得していました。

それから「素直さ」は私の大切なリソースになりました。

子どものどこをみるのか。
少し視点を変えてみる。
子どもの欠点に見えるところって本当に欠点なのかな?
自分の思考を疑ってみる。

子どもの反発は、気持ちを理解して欲しいって精一杯のアピール。
たくさんのエネルギーを使って、自分の大切にしている世界観を伝えている。

子どもの「したこと・できたこと」に目を向ける時、親のジャッジはそこにはいらない。

親の良いと思うところだけ褒めると、すごくバランスが悪いし、親の操作や欲も入りやすい。

ジャッジしてしまうと、本当の子どもの良さは見えなくなってしまう。

必要なのはジャッジじゃなくて、統合と調和。
ただ、持っている力を伝えて、その力を統合していく。

「人様のお役に立つ」

「私は」の視点じゃなく、「私たちは」の視点に目の向け方を変えてみる。これだけでも、かなり視点が変わることに気付けるはず。

見つけた力を人様のお役に立つために使う。

自分のためだけにその力を使おうとすると勝ち負けの世界やジャッジの世界から出られないけど、人との繋がりを大切にすることで、統合され調和のとれた世界で生きることができるようになる。

子育てでは、子どもの魂や精神を見ることが大切なんじゃないかな。
だとしたら、統合や調和を大切にしっかり子どもの軸を立ててあげる必要があるだろう。

そのためには、偏りなくいろんな角度から子どもを良く観察し、能力や信念価値観、自己認識までしっかりした木の幹を育てて、人様の役に立つことで実が付き、はじめて実を収穫できるようになる。

親の歪んだフィルターで子どもをみても、子どもの能力は最大限に発現することはできない。

「私にはできない」
「私は他の人より劣っている」

こんな思い込みを親が植え付ける必要はないんじゃないかな。

親の言葉がけってすごく影響力があるから、息子には力付けになる思い込みの種をたくさん植えてあげたいです。

親の世界観と子どもの世界観は全く違うから、お互いの世界観を尊重して、いかに違いを楽しめるかが大切なんだと思います。

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