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J. D. Salinger "A Perfect Day for Bananafish" が目指すこと

はじめに

 J. D. Salingerの短編集 "Nine Stories" の1作目に "A Perfect Day for Bananafish"(柴田元幸訳:「バナナフィッシュ日和」)という作品が収録されている。まずbananafishとは何かということになるが、Seymour Glassは次のようにSybil Carpenterに語っている。

"Well, they swim into a hole where there's a lot of bananas. They're very ordinary-looking fish when they swim in. But once they get in, they behave like pigs. Why, I've known some bananafish to swim into a banana hole and eat as many as seventy-eight bananas." . . .  "Naturally, after that they're so fat they can't get out of the hole again. Can't fit through the door." . . . "They die." . . . "Well, they get banana fever. It's a terrible disease."

J. D. Salinger "A Perfect Day for Bananafish" in "Nine Stories" 23-24

当然のことながら、これは実在しない架空の魚である。この魚が作品にどのように関わってくるかは重要な論点ではあるが、この作品のみで結論を出せないことである(Glass家シリーズ全作に触れる必要があるため)。したがって本稿ではこの点において短絡的な結論を提示することはしない。ここでは、SeymourとSybilの関係、及びSeymourとbananafishの関係を論じたうえで、本作品が何を目指しているのかを明らかにする。

Seymour GlassとSybil Carpenter

 まず言及が必要な事項としては、Seymourが何者なのかということである。彼のことがわかる箇所を引用する。Seymourの妻Murielの母はSeymourについて "he [筆者注:he = Dr. Sivetski] said―that Seymour may completely lose control of himself" (12)と話すなど、娘との電話中、終始彼の様子を懸念していたり、彼の妻である自身の娘のことを心配していたりしている。また、 "When I think of how you waited for that boy all through the war" (15)という発言もある。これらより、Seymourは精神疾患を患った退役軍人であることが推測できる。
 Seymourのこの境遇と重なるのがSalingerである。Salingerは第一次世界大戦参戦後、精神疾患に苦しめられた(映画 "Rebel in the Rye" [邦題「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」、2017]など、伝記に依る)。彼は自身の体験や当時考えたことを作品に投影する傾向があり、本作もそのひとつであると考えられる("Nine Stories" 2作目の "Uncle Wiggly in Connecticut" なども同様)。
 SeymourとSybilの関係について本格的に論じていくが、最初に注目しておくべきことはSybilの "See more glass." (16)である。Sybilはこれを連発しており、母親を困らせている( "Puppycat, stop saying that. It's driving Mommy absolutely crazy." (16))。このフレーズは、言うまでもないが、Seymour Glassと音が被る([síː / mˈɔɚ / glˈæs]と[ˈsimɔr / glˈæs])。2人の会話から、彼らはこの描写以前にも会っていることがわかる。そしてお互いの名前も知っている。Sybilが幼児であることは "She was wearing a canary-yellow two-piece bathing suit, one piece of which she would not actually be needing for another nine or ten years." (16-17)との記述から判明するため、Sybilは "See more glass" (16)とSeymour Glassの発音を完全に分けられていない可能性があり、どちらも [síː / mˈɔɚ / glˈæs] と発音していると考えられる。しかし、これではあまりに短絡的である。「言語獲得がまだだから」、たしかにそうかもしれないが、故意に被せていることには理由があるはずである。そこで、言語獲得ではない別の観点からこの問題を考える。
 鍵となるのは "See more glass" (16)である。鏡を見るという行為は自分自身を見るという行為に他ならない。そしてこれに "more" が付随している。鏡をよく見ることによって、自分自身をよく見ることになる。自分では気づかないこと、意識しないことが鏡によって暴き出される。Sybilの"See more glass." (16)に対し母親は "Puppycat, stop saying that. It's driving Mommy absolutely crazy." (16)と返すが、それは単に耳障りだからということではなく(それもあるかもしれないが)、自分自身の知らないことを知りたくないという意思の表れであると考えることができる。そしてこの "See more glass" (16)が、次節に関係していくのである。
 この話は一旦ここまでにしておいて、以降本節では、2人の会話やふれあいについて述べる。彼らは身体的なふれあい(ボディタッチ)を非常に多く行っている。最初の描写は "the young man said, putting his hand on Sybil's ankle" (18)であるが、これは砂を蹴っている足を制止したのみであるため見過ごすことにしたい。次に描かれるボディタッチは "He reached in front of him and took both of Sybil's ankle in his hands." (19)である。この場面で、Sybilは足をばたつかせるなどしていない。Seymourが故意にSybilの足首を掴んだのである。その後海の方へ歩いていく際に手をとったり、泳ぐ際に足首を掴んだりしている。そして最後に "The young man suddenly picked one of Sybil's wet feet, which were drooping over the end of the float, and kissed the arch." (25)との記述がある。男性が家族でもない幼女の足に口づけする、これは正常なこととは考えられない。
 以上の過剰ともいえる身体的接触より、Seymourは小児性愛者であると考えられる。これは戦争による精神疾患のためである可能性と、元来そうであった可能性があるが、これ以上詮索することは不可能である。戦前のSeymourを知る手掛かりがないためである。

Seymourとbananafish

 本節では、Seymourとbananafishの関係について論じる。Seymourからbananafishの話が語られたが、この話の出処がどこなのか、本作品では言及されていない。よってここでは議論しない。
 Seymourはホテルに帰った後、自らを銃殺する。当時の感情は一切描写されていないため、不明である。自殺寸前の彼が何を感じ考えたのか、これは推測の域を出ないことになるが、手掛かりをもとに考えることにする。
 彼はSybilと別れた後、未練もなくホテルへ走って向かった( "ran without regret in the direction of the hotel" (25))。Sybilとの身体的接触で充足感に満たされていたのである。そしてその後 "I see you're looking at my feet" (25)とエレベーターに乗り込んできた女性に声をかけた。女性は "I beg your pardon. I happened to be looking at the floor" (26)などと言ってその場を去った。この一連のやり取りは、Sybilの足と自分の足を同一視したともとれる、Seymourの異常性からなるものである。魅力的なSybilの足と同様に自分の足もそれなりの魅力を持っているのである。そのように考えたのかもしれない。しかし少し考えればわかることである。誰しもが他人の足に興味があるとは限らない。自分がSybilの足に魅力を感じただけで、自分の足に魅力を感じる人がいるとは限らない。そのようなことさえも考えることのできない精神的異常性、もしくは充足感に陥っていたのである。私は心も体も満たされた、もう何もやり残したはない。そのような感情から自殺に走ったのではなかろうか。
 ここまで議論してようやく、Seymourとbananafishの関係について本格的に論じることができる。ここから先を進めるには、自殺の原因が必要なのである。彼の自殺の原因をSybilとの身体的接触による心身の充足感とすると、bananafishの死因と重なるところがある。Bananafishは最終的に "banana fever" (24)に罹って死ぬことになるが、その前段階として "Naturally, after that they're so fat they can't get out of the hole again. Can't fit through the door." (24)がある。己の欲からバナナの穴に突っ込みバナナを食べ、心身ともに満足したと思ったら出られずに死ぬ。これがbananafishの死に方である。欲望のまま行動し、満足感を得て、最終的に自らを死に陥れるという形。Seymourと同じである。つまりSeymourは、bananafishと似て非なる存在なのである。
 ここで改めて、 "See more glass" (16)問題に言及する。本節で扱うのは "Are you going in the water, see more glass?" (17)である。Sybilはこのように声をかけたが、おそらく "… Seymour Glass?" と言ったつもりなのであろう。この一言から読み取れるSalingerの意図として、bananafishはSeymourにとって鏡であるということが挙げられる。2人はこれからbananafishについて会話をし、Sybilに関してはそれを見ることになる。先に述べたように、bananafishはSeymourと同じような存在であるため、Seymourがbananfishを見るということは自分自身を見るということになる。自分自身を見る道具、それは鏡である(前節参照)。つまりSalingerはSybilに、「自分自身、見てみる?」と言わせたのである。Sybilはその意図を持っていないだろうし、Seymourはおそらく "… Seymour Glass?" として受け取っている。実際Seymourはbananafishをここで見ていないため、それが自らを映すものであると気づくことは生涯なかったのである。

おわりに―この作品が目指すこと

 最後に、この作品が何を目指しているのかを簡潔に論じて終わることにする。作品のキーワードを挙げるとしたら間違いなく "See more glass" (16)である。自省せよ。これが、Seymourの死を以て表現されているものと考えられる。人間は欲に塗れた生き物である。自分がやりたいことをやりたい。それでいいときもあれば、それではいけないときもある。自省する機会を作らなければ、その判別もできず、突っ走り、大方失敗に終わる。自身を省み、これでいいのだろうか、違う道があるのではないかと考えることが大事である、そのような意図がこの作品に含まれているのではなかろうか。そして、その意図を読者に汲み取ってもらうことが、この作品が目指すことなのである。

引用文献
Salinger, J. D. "A Perfect Day for Bananafish" in "Nine Stories." Little, Brown and Company. 1953


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