『沈黙』遠藤周作 感想


 有名であることは知っていたが、堅苦しく古典的なイメージが拭えず読むのを先延ばしにしていた作品だった。そのため今回授業で触れ、読み解くことができてとても嬉しく思っている。授業内で読んだのは切り取られた部分のみだったものの、あっという間に読み終えてしまった理由は、その生々しい描写が映像を頭に浮かばせたというのはもちろんだが、さまざまに用いられた表現技法に惹きつけられたからだ。例えば耳障りな鼾の描写は沈黙をより引き立たせているし、黒い影がロドリゴを取り巻く不穏な雰囲気の広がりを強調している。人々を救う愛の行為なのにとても苦しく辛いものであったり、キリストを信じる司祭なら転んではいけないけれどキリストなら転ぶだろうなど、矛盾もたくさん用いられていた。散りばめられたそれら作者の巧みな技法により、読み終えた後もしばしの間、世界観から逃れられなかった。
 私はこの本の主題は、人間の弱さやエゴイズム、また日本でのキリスト教の存在と、ロドリゴとイエスとの関係の変化とを通して考える、宗教観にあると思う。まず弱さやエゴイズムについてだが、映画でも、キチジローを許すことができないロドリゴの弱さが皮肉に際立っていた。キチジローはいわば、人間の弱さ、醜さをかき集めた存在として描かれている。そんな彼の葛藤、弱さ、裏切りをロドリゴは知りながら、許すことができない。右の頬をぶたれたら、左の頬を差しだしなさい、というキリストの教えからは、彼という存在が無条件の赦し、慈悲に満ちていることを表しているため、ロドリゴはキリストとは真逆だ。これほどまでにキリストを信仰していながらも、キリストのようには行動できない、ロドリゴの矛盾に、考えさせられるものがある。また彼には、キチジローを軽蔑し続けるだけの強い信念も、キリスト教を日本に広める使命とカトリック教会の司祭としてのプライドもあった。ロドリゴにとっては、神による救済を信じているからこそ苦難やな拷問にも耐えられるが、この物語が鋭く突いているのは、『自分の救済と引き換えに、無関係な人々の命が犠牲になることのはどうなのか』というところだ。ロドリゴが自分の信仰と虚栄心や自尊心にしがみ続けている限り、無関係の村人が殺されていくという、狭間での苦しみは耐え難いものだろう。結局キチジローも、ロドリゴも、どちらとも違った意味での人間の弱さが表現されていた。
 キリストの表情の変化を考える際は、「一つは父の宗教であり、いまひとつは母の宗教である。」という作者の自解にあったこの言葉をわかりやすい。初めは人間の考える理想のキリスト、威厳があり、人間にとって恐るべき相手だった。だが最後には、母のような宗教、神が人間と一緒に苦しむ姿となって表現される。ロドリゴが棄てたのはキリスト教であり、キリストへの信仰ではない。彼はその中に、母のようなキリストの存在を見出したのだろう。本当の意味での信仰を得たロドリゴは、その時初めてキリストを近く感じたことだろう。
 過酷なキリスト教弾圧からは、日本人の宗教観を見ることができる。私たちは年末年始に神社にお参りに行き、夏にはお寺で先祖の供養をし、冬になればクリスマスを祝って、結婚式はチャペルで挙げるかもしれない。一対一でキリスト教と向き合い、神が全てを創造したと考えるキリスト教とは根本的に大きな違いがあるように思った。
 沈黙という題名の意味を考えさせられる。この一人の孤独な沈黙の中で、幾度となくロドリゴは葛藤し、あの人を求め、自分自身を探し続けたのだろう。沈黙だけが、彼の苦しみを知っている。またこの沈黙はロドリゴ本人のものでもあり、キリストのものでもある。その際資料として、“今なら『沈黙』という題はつけない”という、作者の考えを読んだが、よく考えている人はやはり普通と違うんだなあと感心した。素人の私からしてみれば、沈黙という題は、まさにいろんな意味を含んでいて、真に迫るものがあると思ったが、これを“大上段に振りかぶった”表現だと感じるところに、作者がどれほど作品と向き合い、自分の納得のいくものにしようと細かい表現を突き詰めたかがわかる。この題を見て、重みがあるなぁと素直に胸に響いた私は、作者からしてみれば、気に入らない戦法にまんまとハマった残念な読者だろう。だがもし日向の香りという題名がつけられていたら、はてなマークでいっぱいだったと思う。こういった作者の考えや意図は大抵説明されない分、読む機会があると楽しいものだ。
 カトリックの学校に通う身として、読んだ部分は短いながらも興味深かった。必ず初めから終わりまで読み通したい。遠藤周作の他の作品は海と毒薬が気になっているため、それらを読むのも楽しみにしている。

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