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ダイバーシティとウェルビーイングのある空間で学ぶこと

ここでは、東京にて行われたSCHOOL合宿に参加して学んだことについて述べる。
SCHOOLとは学校教員、民間、学生、様々な立場の人とかかわり、あらゆる授業を共創しているまったく新しい学びの集団のことである。

わたしがこのSCHOOLにかかわるきかっけとなったのは、昨年秋にMicrosoft認定教員のTeamsにおいて参加募集があった「こくり100人トークス」の際に、たまたま同じグループにいたプロデューサーの言葉にあった、「先生たちが憧れられるような社会にしたい」という熱い話を聴いたからだ。
今、世の中は先生の仕事はブラックだ、残業がでない、不祥事があれば大きく取り上げられるのに、いい授業をしてもほとんど取り上げられない。そんないわゆるネガキャンが繰り返される中、教師が野球選手やサッカー選手のように憧れられる仕事にしようと本気で声を上げていたその姿に、心が動かされた。
そんなプロデューサーのもとで開催された3月のSCHOOL武蔵野。授業では自分自身の成長を実感できただけでなく、全国のすばらしい教育関係者、教育に関わろうとする社会人や夢と熱意に溢れる学生の学びに対する膨大なエネルギーに感銘を受けた。

私たちの職種はその特性上、どうしてもこれまで同じ校種の似たような志しの人とのかかわりがどうしても多くなりがちである。
特に、〇〇研究会のような学びの場では、いわゆる教科の専門性やいわゆる教育方法学に特化していることから、経験年数に幅はあるものの、どうしてもその見方や考え方のちがいは似通っていることが多い。(もちろんそうでない場合もあるが)

SCHOOLはそういった意味では今風に言うと、「桁違いのダイバーシティ(多様性)とウェルビーイング(幸福感/心地よさ)」にあふれている学習集団といえるだろう。

まさに多様な立場、多様な年齢層、多様な経験と知識をもった集団が、それぞれの自己実現に向けて切磋琢磨して、それぞれの授業を公開し合うというのだから、参加せずにはいられなかった。

案の定、この2日間では授業中は当然、授業の合間の会話にも、食事中の話にも、移動中にもすべての場面で学びつづけることしかなかった。

何としてもこの学びを形に残したいという思いで、帰りの新幹線で今この原稿をうっている。

私が特に今回、感銘を受けた授業の一つに「micro-bitカーリング」の授業がある。
授業は、マイクロビットを使って、前にどのくらい進むか、どのくらい右に回転するか、どのくらい左に回転するかという簡単なプログラミングをほどこし、その動きを何度か試行錯誤しながら、相手のカーリングにぶつけたり、的をねらったりするという活動であった。
カーリングのルールやマイクロビットの接続方法について教師が「教えていたのは」ものの5分程度であり、その授業時間のほとんどが「学習者が学び続ける」時間であった。

教えられるのではなく、学ぶ授業とは何かということを、特にこの数年間は個別最適な学びの実現の文脈で関心をもってきているが、まさに私たちが目指す授業の具体がここで体現されていた。

ある一定のフレームの中で、目的意識を明確に持って、何度も試行錯誤する。失敗から学ぶことを繰り返していくうちに、新しい発想がみえてくる。まさに、自らが進んで学習したくなる授業そのものだった。いいかえれば、小さな探究サイクルが1時間の中にあちらこちらで何度も起こっているということである。

Aさんは、進んだ後に180度回転させることで、カーリングの羽を後ろにしながら停止させることをした。(羽にあたれば少し前に行くという仕組みがあるから、羽を触られないようにしたくなる構造になっている)

それをみたBさんは、羽にあてられないことがわかったので、押し込めるように前に進み続けるプログラミングをした。

それをみたCさんは、それをみて押し込まれてもいいようにあえて的の手前で止まることで相手に押し込ませるようにプログラミングをした。

こんな風に、相手の作戦に応じてどうしたらいいかを思考しなおし、プログラミングで再現し続けることがたった45分の授業の中で何度も何度もみられた。
当然、思考し続けた分その時間経過もあっという間に過ぎ、もっと学びたい。もっとやってみたいという気持ちにさせられた。

私もこのような学習体験を子どもに普段の授業で積み重ねていきたい。と強く思える授業であった。

このほか、New体育の授業では、フラフープとペットボトルをつかった転がし輪投げのようなアクティビティをした。授業者の指示は、5分間の間に4人一組で4本のフラフープをころがして、ペットボトルにあてることがでれば1点、うまくペットボトルにフラフープを入れることができたら2点という指示だけである。

学習者側の4人のわたしたちは、フラフープをまずは転がし始めるわけであるが、やっていくうちに、転がしたうえで壁にあてた方が輪の中に入れやすいことに気づく。転がし方を変えてみる。そうやっていくうちに4人のうち、だれかがフラフープを回収して転がし返す役に回った方がいいことに気が付く。回収する人を適度に交代しあえた方が、みんなが投げることができるな。転がして返すときには、すこしバックスピンをかけて返した方が仲間がとりやすそうだな。などと、たった5分の間にどんどんチームワークを深めながらゲームに参加している自分の姿があった。

この活動以外にも4つほどのゲームを通して、体を動かし続け、頭を動かし続けるという学習体験があった。当然そういった授業ではあっという間に時間が過ぎ、みんなが何度も笑いあったり、みんなが何度も拍手しあったりするという姿が起こっていた。

まさにわたしたちが今、考えないといけない授業観のアップデートの一つの指標となるような授業であった。

言い換えれば、協働的に学ぶというのは、何も「対話」だけでなく、「その場のふるまい」「その場の相手への思いやり」「目の前で起こっている出来事をよりよくしようとする態度」こういった要素が含まれているということを実感できた。

 最後に、ここに残しておきたいのは「ボードゲーム」と「今求められている教育観(ここでは自律的な学習者の育成)」との互換性である。

この合宿中には、当然、授業だけでなくいわゆる休み時間が存在していたわけだが、その休み時間の中で最も時間を使ったのが「ボードゲーム」だ。

カタカナーシでは、「カタカナの概念的なもの」をカタカナをつかわずに説明し、そのカタカナの概念的なものを当てるというゲームだ。

例えば、「マイナー」「スレッド」「デニッシュ」「レゲエ」などの言葉がお題になるわけだ。もう少しいうと、「マイナー」を説明するときには、「米国の野球で、2軍の選手が活躍するための~」と説明しているうちに、「マイナー!」となるべく早く当てることができるのかと競うといった感じである。

ここでは、学習の基盤となる資質・能力のうち「言語能力」が鍛えられた。
ある言葉を説明するために、ある言葉をつなげないといけない必然性、しかも相手に伝わらないといけないという相手意識、さらには概念を言語化するわけなので、具体と抽象の往還が何度も起こるというわけである。
また、「何度間違えてもお手付きにならない」というルールも素晴らしい。失敗できることのよって、どんどんカタカナ言葉が飛び交う。
なんとか当てたいから、粘り強く何度も答えに向かって発言が起こる。
まさに、言語能力の育成に向けて、また粘り強く学ぼうとする資質能力を育むことに直面している私たちにとって、子どもたちと明日から取り組みたいと思えるボードゲームだった。

 もう一つ紹介したいのは「狩歌(かるた)」である。

いわゆるカルタのようにたくさんのカードの中から、いち早く「出てきた言葉」をとることができたら、そのカードの右上のポイントがもらえるというカードゲームである。

このカードには「僕」「好き」「人」「今日」「涙」「すぐ」「永遠」「運命」「ありがとう」など、ある程度、歌詞によくでてくるだろう言葉が書かれているわけだ。
このゲームでは、曲の歌詞に着目して「聴く」という行為と、目の前に並んだカードの言葉を「読む」という行為が同時に起こるだけでなく、歌詞に聴き入って「考える」という行為も起こっている。
さらに、カードをとれた仲間がいたら「すごい」「そこあったんか」「よくみつけられたね」などと、自然と仲間同士で称賛しあう姿もあった。ある学生さんの声掛けで立ち位置をチェンジしよう。歌は1番の終わりまでにしよう。などと、バランスよく思考に区切りをつけることで、集中力の持続にもつながっていた。

普通のカルタであれば、初めの言葉にしか着目して聴かないので、あとにどんなにいい言葉や文がかかれていたとしてもその言葉を対象に「聴く」という行為は起こらず、またカルタのカードであれば一文字目にしか着目して読んでいないため、そこには「思考をともなった読む」は起こっていない。

「狩歌」はまさに、特に国語科で求められている3領域のうち「話す・聞く」「読む」の2領域にせまれるだけでなく、音楽を通して気持ちが高揚できる点、仲間と認めあえる学びの集団ができる点、何よりも「言葉を大切にしようとする態度」を育てるにはうってつけの教材だといえるだろう。

 ここまで、大きく2つの授業におけるこれからの授業観と2つのカードゲームの事例における現代教育との関連について簡単に整理したが、これらの学びはこのSCHOOL合宿での学びのほんの一部にしか過ぎない。

このほかにも、全く新しい古典文学の読み方、情報リテラシーについて見方をかえて学ぶ授業、接続詞の機能をうまく生かした自己内対話と自己実現に向けたメタ的な活動など、あらゆる素晴らしい授業があった。

私自身は、五感と表現の工夫という2つの見方から詩を創作する授業をした。具体的にはデザインツールであるCanvaのクラウド共有によって詩の執筆かつレイアウトをリアルタイム更新で主体的かつ協働的にできるという提案をさせてもらった。詩の創作を通して自らの学びの自覚化を促し、次につなげるということをねらって構想したわけであるが、今回学習者として経験した多くのほかの授業と比べるとまだまだその授業の提案性には遠く及ばないという反省が随所に見られた。

 

8月にはなんと某有名大学とのコラボによる授業公開イベントや来年にはさらに進化したSCHOOLを計画しているそうだ。質の高い学びには、長い時間をかけて全く違った空間に自分の身を投げるという必要性を改めて実感した今、また当たり前のようにダイバーシティとウェルビーイングのあふれる空間に戻ってくることを固く決心した。

今回、デマンドサイドで体験できた素晴らしい授業に一歩でも近づいていけるように、またこのような素晴らしい空間で授業者として登壇できる日が来ることも一つの目標に、間もなく到着する大阪の地でまた明日から学び続けようと思う。


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国語授業研究室
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