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水曜の朝、午前三時 / 蓮見 圭一
女性が主人公の話だから、作者は女性かと勝手に思っていたけれど男性だったんだ(今更…)
「女性だから」という立場に甘えずに、男性と同じようなレベルで立ちたいと思う女性の、恋にのめり込んだときの変わる様。
男性の「少し考えさせて」って言葉にうろたえる女性の姿。
あとがきにも書かれているけれど、全くもって風俗的な記述はない。古風で床しい恋愛小説。
その古風な感じに少し物足りなさを感じながらも、最後の直美の一言。
“人生は宝探し”
“何にもまして重要なのは内心の訴えなのです。
あなたは何をしたいのか。
何になりたいのか。
どういう人間として、どんな人生を送りたいのか。
それは一時的な気の迷いなのか。
それともやむにやまれぬ本能の訴えなのか。
耳を澄まして、じっと自分の声を聞くことです。
歩き出すのはそれからでも遅くないのだから”
最後の最後に持って行かれる。
自分が何になりたいのか。考えられているようで、今まで考えられていなかった。
でも、私は…自分のなりたい姿を貫き通すことはできないと思う。
自分のこうありたいと周りにとってどうあるべきかが違ったら…周りにとってどうあるべきかの方に自分を持っていきたい。
自分にとって周りに居て欲しい人が「どういう人」かで、付き合ったり離れたりするのは寂しい。その指針で物事を決めることが、私には耐えられない。
「もっとお前らしさを出していい」って言われるけど、私らしさって何なのだ。
「お前らしくない」の「お前らしく」は、その人にとって私が「どうであって欲しいか」に等しく思う。私に対して「こうあって欲しい」と思ってくれる人は、私を見ていてくれる人だと同時に思う。だから、「こうあって欲しい」自分になりたいと思う。
全てのコミュニティで、いつも同じ自分である必要があるのか。
出している部分が違うだけで、自分は自分であり、それが辛くないのなら違ったっていいんじゃないかと思う。あるコミュニティでちょっと出せない自分があったら、他のコミュニティで出せないところを出せばいい。そうやってバランスを取ることだってあっていいだろう。
大事な人だけには全部の自分を出せたらそれでいいと思うんだ。
いつでもどこでも全力で「私は私なんだ」と出し続ける、勝手な人間になりたくない。
「こうあって欲しい」と思ってもらえる人に私はなりたい。
それは自分がないのとは違う。
耳を澄まして、じっと自分の声を聞く。
それは、若いと難しい。焦ってしまう。立ち止まることの大切さをわかっていながらも、それを行動にすることはとても難しい。立ち止まって流れていく時間をどうやって巻き返せばいいのか。巻き返すと想っているうちは、立ち止まれないんじゃないかとも思う。
どうやったら、そう思わなくなるのだろうか。