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【連載】家族会議『察するほどすれ違う夫婦編』

「親戚で一番幸せな家族になろうよ」のひと言から始まったわが家の家族会議。その様子を、録音記録をもとに書き記しています。

前回の記事はこちら。

家族会議3日目#10|察するほどすれ違う夫婦

――日本は察する文化だって言うからね。と母が言った。

日本文化の特徴と言われる「余白の美」は、余白に秘められた余情や感情を想像することが鑑賞の醍醐味だ。

そこには、「想像させる者」と「想像する者」がいる。

このスタイルが日常のコミュニケーションにも浸透し、「察する」文化が生まれたのかもしれない。


しかしこの「察する」を、誤解している人がいる。

日常において「察する(想像する)」場合、相手(作者)の表現(言葉や態度)を見て、余白にあるものを想像する必要がある。

「察して欲しい」場合も同じだ。
感情を直接的に言い表さず、言葉や態度で余白を想像させる必要がある。

「察する」文化には、お互いに高度な芸術的感性が必要なのだ。


そんな感性を持ち合わせていない凡人は、察するよりも聞いた方がいい。察してもらおうとするより伝えたほうがいい。
奥ゆかしさなど目指している間に、夫婦仲は破綻してしまう。


わたし:お父さんは気持ちが出にくいけど、たとえば褒めてほしいとき、「褒めてほしいな~」って言ってみるとかね。

お父さんてまずは行動して、それを褒めてもらおうとするよね。行動をして「分かって」っていうのがお父さんで、それでわかってもらえなくて悲しくなったり、イライラしたりするわけだから、やっぱり気持ちを言ってくことなんだよね。


――父は幼少期、母親の気持ちを察して行動してきた。

それがクセになった父は、何も言わず何も聞かずに行動する。そして感謝の言葉が返ってくるのを、ただじっと待つ。それで思い通りの反応が得られないと怒り出すのが常だ。


:わたし今までね、お父さんがなんかいろいろやるでしょ。そんな風にしつけられてきたのかなって思ってきたの。人から言われる前によく見て、これをやるのが一番いいんだって。相手にとって助かることはどういうことなんだって自分で考えて、相手に言われる前にやるってことを、しつけられてきたのかなって。

わたし:それはあるの?

:あるよやっぱり


――多くを語らず多くを聞かない。そして「察する」。その伝統的コミュニケーションが成立するカギは、やはり感情だと思う。

相手と自分の感情のやりとりが主軸にあって、初めて「余白の美」は成立するのではないだろうか。


わたし:相手はこれを望んでるんじゃないかって思っても、そうじゃないこともあるでしょ?

:ずれちゃうことね。
お父さんの頭の中で最善をやってると思うけど、そんな風にしつけられてきたから一生懸命それをやるのかなって感じもしてたし。でもやってもらっても、ちょっと思ってることと違ったりするから…。


――相手のことを考えず、自分の都合で余白を想像するからズレる。察しているつもりが察していないのだ。これが「良かれと思ってやったのに」にもつながる。

でも父にとって、察しがズレていたかどうかは重要ではない。父にとっては「察した」という事実だけが重要で、「察したのだから感謝される以外ない」と思ってしまうのだ。そこにもう、感情のやりとりなどない。


わたし:お父さんがさ、本当に相手の気持ちを考えて、相手の気持ちをわかったうえで行動を先にやる、みたいなことができたら、めちゃめちゃ褒められるって思うよ。

:でもそれはこっちとしても、そんなことまでしなくていいよ。やってもらいたいことは言うからさって感じかな。言わなくてもわかりなさいよなんて、それはこっちとしても…。


――凡人であるわが家のコミュニケーションは、「察する」よりも「言う・聞く」のほうが自然だ。そのほうがズレだって少ない。

それに、勝手に察して行動するというのは、ともすれば「無視」になる。そのつもりはなくても、相手にとっては気持ちを無視された行動に見えてしまうのだ。


わたし:今まである意味、相手の気持ちを無視してた。お父さんは無視するつもりないんだけど結果的にそうなっちゃう。で、せっかくやったのに怒られる。それで「なんなんだ」って怒るみたいな。そんなことが起こりがちなんだよね。
そんな残念なことをなくすには相手の気持ちをわかることなんだけど、お母さんが言うように、コミュニケーションとればいいってことなんだよね。

:コミュニケーションすればそれもできるようになるかもしれないし。わたしだって、頭の中でこうしようって思ってるわけだし。

わたし:会話をもっとして、会話しながら一緒に行動していくって感じかな。先読みはすごいことなんだけど、高度すぎるんだよね。

:お父さんなりに考えてやるんだろうけど、わたしとしては「そうじゃない」って感じになるし。それでわたしはすぐ文句を言っちゃうんだけど、お父さんは「文句の前にありがとうはないのか」って言うし。

わたし:ほんとにへたくそだよねコミュニケーションが。笑


――芸術鑑賞であれば、想像した余白が間違っていようが問題にはならない。その人の感性で想像すればいいし、そのズレすらも芸術のひとつだ。

日常生活に取り入れるならば、自分と相手に「心の余白」が必要である。想像がズレていても、そのズレを楽しめるほどの余白が。そして答え合わせを楽しみながら、心の解像度を高めていけばいい。

そんな「心の余白」が無いならば、直接的なコミュニケーションをしたほうがよほどいい。関係がこじれてしまう前に。


― 今日はここまで ―


日本文化の「余白の美」は、余白を想像させることで相手を夢中にさせるような、そんな側面があるのだと思う。つまりは「想像させる側」が何かを表現するところから始まる。その表現を見て、あれやこれやと夢中になって考えるのだ。

それなのに相手を見もせず、勝手に察してしまっては成り立たない。

「察する」文化の誤解もまた、人間関係の不和を引き起こす。

<家族会議3日目おわり>


これまでの家族会議記事はマガジンにまとめています。お時間あればぜひ、わが家の会議をのぞきに来てください!

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心乃泉
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