夏の幻の風景が今の私にくれたもの
「今年、牛深の海に行くのはどうかな」
家族四人で夏休みの計画をしているときだった。口からポロッと出た後、私はすぐに後悔した。しかし、時既に遅し。夫も子どもたちも「牛深の海」という言葉に目がキラリーンと光っていた。
牛深は、熊本県天草市という西の端のそのまた端にある小さな町である。東シナ海に面していて、海がとても美しい町だ。父の実家があったその場所で、私は小さい頃からその海で泳いできた。今は、父と母が熊本の中心近くに住んでいるため、行く機会はかなり減っていた。最後に帰ったのは8年くらい前だろうか。
問題は、距離だった。まず、私たちが住んでいる大分県から父と母が住む熊本の家まで車で2時間と少しかかる。そこから牛深まではさらに車で3時間半かかる。つまり、大分の我が家から牛深まで6時間弱もかかるのだ。気の遠くなるような時間。子連れで行くのは難しいだろうと、今まで避けてきた。
しかしそれを聞いた父は、大喜びで計画を立ててくれた。父の実家は老朽化のため数年前に取り壊し、今は更地になっている。そのため、旅館を予約し、息子たちにも長距離移動の負担がないようにしてくれた。
私たち家族は熊本の実家に前泊し、牛深への出発の時を迎えた。夫と交代で運転したり、寄り道をしたりしながらだと長距離運転も楽しむことができた。道路の脇に見える海の透明度が時間と共に増していく。小さい頃は、親が運転してくれていたけれど、今は私と夫が運転して父と母が後ろにいることがなんだか新鮮だった。
「茂串海水浴場」
今でもウミガメが卵を産みに来るというその浜辺には、さらさらの砂浜に蒼く透き通る海が広がっていた。その海で遊ぶ我が子の笑顔が弾けていた。
青い空の下、海で思い切り泳いで、旅館へ帰った。息子たちは大好きなじいじばあばと一緒に寝ると言って、私たちは夫婦でのんびりできることになった。温泉に入り、美味しい料理を食べ、ぐっすり寝る。至福の時間だ。
「牛深に来れて良かったね。お父さん、孫を連れてくるっていう念願の夢が叶ったって何回も言ってたよ」
夫がしみじみと言った。その言葉を聞いて、不意に涙が溢れた。夫や息子が思い出の詰まったこの場所に来てくれたこと、そこで楽しそうに遊んでいたこと、父がそれを喜んでくれたことが嬉しかった。
それと同時に寂しい気持ちも込み上げてきた。私が幼い頃に親戚みんなが集まって賑わっていたお盆の時間はもう二度と戻ってこない。亡くなった大好きな従兄弟も愉快な叔父さんももういない。あの幻のような夏の風景がまぶたの奥に蘇っては、消えていった。
次の日、墓参りに行った。200〜300ほどのお墓が斜面に並ぶこの場所は、お盆の時期には大勢の人たちで賑わいを見せる。うちの墓は、斜面の上の方にある。そこまで登ると広い海と町中が見渡せる。
墓周りを掃除して、久しぶりにお参りをした。その後、父の家がある場所へ行った。子どもの頃、大きく広く見えた道は、大人になるとすごく狭く見える。あんなに遠く感じていたのに、あっという間に父の家があった場所についた。
大きくて広くて、子どもながらに少し自慢だったおじいちゃんちは、跡形もなかった。更地になった場所は、すごく小さく寂しく見えた。色々な思い出が次々に蘇る。いとこと一緒に花火をしたこと。小さな商店に親戚みんなのアイスを買いにおつかいに行ったこと。タニシを釣り竿の先につけて、魚を釣ったこと。おじいちゃんの船に乗せてもらって、無人島に泳ぎに行ったこと……。
「あ! お魚さんだ!」
息子の声にはっと我に返った。海を見ると、青く光る小さな魚が泳いでいる。熱帯魚だ。よく見ると大きな魚も泳いでいる。小さなフグの赤ちゃん、小さなイカの赤ちゃんの大群もいた。そして、驚くことに大きなエイが二匹、悠々と泳いでいたのだ。これには流石の父も驚いていた。
「なんか昔よりも海がきれいになった気がする……」
海の底がよく見える。父によると以前は近くで魚の養殖所があったけど、それが無くなったことで海が綺麗になったらしい。過疎化によって町の人口が減ったことで海に流れる生活排水が減ったこともあるだろう。
「海って、きれいになるんだ……」
思わず呟いた。私の中で海は時と共にどんどん汚くなっていくイメージがあったのだ。海が再生している。胸の奥でじーんとするものがあった。
その後、親戚のおばちゃんの家に行った。おばちゃんは夫も息子も早くに亡くしている。おばちゃんが元気でいることは事前に母に聞いていたものの、少しだけ会うのが怖かった。しかし、5、6年ぶりに会ったおばちゃんは、私の予想を遥かに超えて元気だった。新しいお気に入りの車を買ったこと、もうすぐ孫が生まれること、新しい仕事を始めたことなどたくさん話してくれた。そんなおばちゃんの姿を見て、心からホッとしている自分がいた。
そしてそのとき、自分の中で腑に落ちたことがあった。
そうか、もしかしたら私は無意識に、あの頃の「楽しかった牛深」をずっと追い求めていたのかもしれない。時とともに、亡くなっていく人や町を離れる人、老いていく人がいるのは当然のこと。だけどそれを直視するのをどこかで恐れていたのかもしれない。
町も人もあの頃のまま止まっているわけではない。だけど、ただただ廃れていっているのでもない。海が美しさを取り戻したように、人だって何かを失ってもまた、希望を繋いで今を生きているのだ。
「将来は、絶対息子たちは彼女連れてこの浜に来るやろうな〜」
帰り道、夫が幸せそうに言った。そんな想像はしたことがなかった。でも、私がそうであったように、息子たちにもまたこの海での経験が思い出として残り、それが彼らの未来へと続いていくのかもしれない。そうであったら、嬉しい。
過去、現在、未来。それは死と再生を繰り返しながら脈々と続いていく。倒れた木から新しい芽が出てくるように、全ては未来へと繋がっていくんだ。
帰り際、牛深のお祭りでエイサーを見て、心が震えた。3年前に家の近所のエイサーの会に見学に行き、そのまま疎遠になっていたことを思い出した。今度、また見学に行こう。そして、エイサーを習いたい。
新たな道がまた、私の目の前に続いている。