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性別はふたつ?

性別は二つだけ?

Spring Semesterが始まってから1ヶ月。
ジェンダーの授業を履修するようになってから、私はこれまで以上に「ジェンダー」という問題について深く考えるようになった。

これほど複雑で、正解のないトピックに向き合うのは初めてで、頭を悩ませるばかり。

トランプ大統領の大統領令にまで取り上げられるほど「性」に対する認識は重要な問題であるんだなって。

ここで私が思ったこと、現時点の私の中で起こったモヤモヤをシェアしてみようと。

「SEX」と「GENDER」の違い

ジェンダー問題を考える上で欠かせないのが、“SEX” と “GENDER” の区別。
この二つの概念を理解することで、何が問題になっているのかをより深く分析できる。

  • SEX(生物学的性別) =「男性」「女性」として生物学的に区別される性

  • GENDER(社会的性別) = 社会的に「男性らしさ」「女性らしさ」とされる行動や表現、役割に関する概念

ここで問題になるのが、性別は本当に二つだけなのか? ということだ。

「男女」という枠組みの限界

例えば、生まれ持った性別とは異なるアイデンティティを持つ人々は、社会が「性別は男女のみ」という枠組みを前提に構築されていることで、日々困難や疎外感を抱えながら生きることになる。

最近ではジェンダーの多様性への認識が広まってきたものの、社会の根底には「性別は二つだけ」という固定観念が根強く残っている。その結果、個人のファッションの選択、職業の選び方、同性恋愛といった、本来自由であるべき選択肢が制限されることにつながっている。

例えば、

  • 「女性らしい」「男性らしい」振る舞いは、社会の規範に従うべきものなのか?

  • 「女性向き」「男性向き」とされる職業は本当に存在するのか?

  • 異性愛が「当たり前」でなければならないのか?

これは、LGBTQ+の問題だけでなく、男女間の問題としても深く関わってくる。

例えば、「家事や育児は女性がするべきもの」といった考え方は、長年の宗教的・文化的影響によって社会に根付いてしまっているけど、こうした価値観が残ることで、女性の社会進出が阻害されてきて、特に日本では、女性議員の少なさ、賃金格差といった現象を引き起こしている。

「多様性」をどう捉えるか

本当の多様性ってなにか。多様性を強調しすぎていないか。多様であればあるほどいい?

ジェンダー問題を議論する目的は、社会に不当に圧迫されているマイノリティや女性の人権を守り、社会の在り方を見直すことにある。

しかし一方で、私は「多様性」を過剰に推し進める風潮にも疑問を感じる。
本当の意味での「多様性」とは何なのだろう。

例えば、アファーマティブ・アクションは、多様な人種やジェンダーの人々を積極的に受け入れるための制度だけど、それが適用されるべき場面と、そうでない場面があるんじゃないかって思う。

  • 政治の場面では、多様な立場の視点が必要不可欠であり、女性やマイノリティが参画すべきである。だから進んで多様性を追求することはいいことなのでは🤔

  • しかし、ビジネスの場面では、企業の目的が「利益の追求」である以上、多様性を理由に採用基準を変えるのは会社の理念と矛盾することもあるのでは🤨

もちろん、これは企業の方針によるだろうけど、多様性が「目的」ではなく「手段」として使われることには違和感を感じたり〜

色んな理念方針があることにこそ
多様性を感じるってゆう私のイメージ😌


トランプの政策について

こうした視点で物事を考えたとき、私はトランプの政策の一部においては、妥当な点があると感じたり。

“多様性が強調されすぎた結果、本来の目的が見失われているのではないか?”

不平等社会の是正を試みること自体は、必ずしも間違いではないのかもしれない。

その点においては、区別を図ろうとする面でとてもはっきりしていていいとは思う。

でもやはりその一方で「大統領令」という形でジェンダーの概念を合理的に決定して、二つの枠組みに人々を当てはめようとすることには強い違和感を覚える。

ジェンダーは多様であり、時代とともに変化しうるものって授業で学んだんだけど、実際に社会の風潮、社会規範が変われば、ジェンダーの定義も変化するのはもちろん。

“Gender is fluid” この言葉に尽きる。

そこへの敬意を払うこと
理解はできなくても、その考え方が受け入れがたくても、そういう形もあるということが知れ渡って、普通であるとされる固定概念(性別はふたつ)が実はそうでもないということがわかればいいんじゃないかと思う、だから二つの枠組みに彼ら、彼女らを強要させることは、違うんじゃないかと思ったり。

バイデン政権で一度認められた多様性を、トランプ政権が否定することは、マイノリティを攻撃する行為に他ならない。これでは社会の分断を加速してしまっているよね?

メディアとジェンダー問題

もう一つ気になるのは、メディアの報道姿勢。

ジェンダー問題に関して、メディアがマイノリティの声を過剰に取り上げすぎると、それが逆効果になりかねないって友達が言ってて、確かにって思った。

ジェンダーは流動的なものであって、常に変化し続けるものだからこそ、重要なのは「お互いの認識」であり、「どちらかの意見を押し付けること」ではない。

「マジョリティにマイノリティの価値観を押し付ける」のではなく、「マイノリティが安心して生きられる社会を作る」ことこそ、本来の目的であるべきだ。

だからメディアの一方的な、マイノリティに焦点を当てすぎた報道も、その原因になってる社会のシステムの何が悪いのか、その裏には何があるのかってところ、そこが抜けてしまっているのはただのマイノリティの言い放題大会にみえてしまう、そんな報道の仕方もどうかと思ったり。事実を伝えているんだろうけど、その事実はみんなが理解できるものではないし、分からせたいためにやってるならそれは無理があるんじゃないかな。マイノリティの人たちもきっと自分の苦しみ、現状を分かってほしいとかではなくて、いろんな定義がジェンダーにあること、それを認識してもらってこの世でみんなと同じようにありのままに暮らすことがしたいだろうに、メディアはこの点でマイノリティに彼らのプラットフォームの寛容性を誇張がしたいために変な偏見と正義感を反映してしまっている気がする。

そもそもそこまで執拗に彼らに焦点を当てなくてもいいんじゃないか〜!!!

メディアが作り上げてる問題なのでは〜と

結局、正解はあるのか?

このテーマにゴールはあるのか?

考えれば考えるほど、答えは見えなくなる。

ただ、一つだけ確かなのは、

「みんなが同じ幸せを手にすることはできない」って現実。でも、自分を理解してくれる仲間や友達、パートナーがいれば、それで十分なんじゃないかって思う。

もちろん、当事者じゃないから共感できない部分もあるし、私の意見が正しいってわけでもない。
ただ、自分なりに考えて、このモヤモヤした気持ちに、何かヒントや意味を見つけられたらなって思って、今のこの感情を残しておきたいなと。

これから、自分の周りの人や、もし自分の子供が同じような苦しみや困難にぶつかったとき、ジェンダーのクラスで学んだことや、社会の仕組みを通じて、彼らや彼女らが自分なりの幸せを見つけられる手助けができたらいいな。
そして、もちろん一緒に幸せを分かち合いたい。

それが、今の私の一番の思いかな!

ではまた明日もジェンダーのクラスでゴシゴシ頭使っていくよ~う✋

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