湯気を食べたい

最近、ラジオ番組を聴いていると「空襲後の焼け野原で湯気の立つ食べ物はとても贅沢だった」という言葉を耳にし、‘湯気の立つ食べ物’という言い回しがなんとも素敵で印象に残った。
つまり温かい食べ物ということなのだが、なんとなく、そうそう、それ!という共感を呼び起こす言い方だと思う。

今日びの寒い時期には鍋やおでん、シチューなどが日々の食事の定番メニューとして並び、これらは冷えた体を温める食事だから食べたくなるのだとなんとなく思っていたが、実はあの白い湯気を欲していたのではないかとはっとする。湯気の揺らめき立つか細い線を思い浮かべると ハフハフとほおばる食事のシーンが思い浮かぶ。‘温かい食べ物’よりも‘湯気の立つ食べ物’という言い回しの方が なんとなく美味しそうだと思うのだ。
例えば寒い朝のコーヒーも格別だと思う。コーヒーの湯気を吸うと鼻孔を通って香りとともに温かい空気がふわっと喉の奥から肺に広がる。カフェインが脳を刺激すると同時に体がぽっと温まる。わたしはこのとき、幼いときの記憶が脳の奥の方をかすかにかすめ、つかの間ノスタルジーな感覚に引き込まれる。同時に、普段見慣れた朝食のテーブルが、どこか遠くの、雪で薄青色に染まった街にあるテーブルのような、よそ行きの神秘的な気持ちにひたる。
冬のコーヒーはまるで湯気を楽しみに、湯気を飲んでいるかのようだ。
この空気と溶け込み消えていく‘湯気’こそが実はメインのご馳走なのではないだろうか。

昔 ロウソクに火を付けると どうしてロウが減るのかと不思議に思ったことがあった。ロウが溶けても元の体積分だけ残るのではないかと思ったのだ。しかしロウは加熱によって気体と液体に分離され、気化した気体は空気中に分散し、液体となった分だけ体積として残る。気体を目視することはできないので、ロウが減っていくという感覚になるのだと理科か何かで知る。

普段 目に見えないものに意識を向けるのは困難だ。
わたしが目に見えないものを実感したのはちょっと悲しいがダニである。以前に微熱と目の周りが赤くなる日が続き、耳鼻科に行くとダニアレルギーだということが判明した。それまでダニを見たことがなかったので(小さくて肉眼では見えないので当たり前なのだが)いつの間にか彼らに囲まれているのかと知って驚いた。それからは掃除をすると彼らが舞っているのかもしれないと実感し、布団やシーツに寝転ぶと彼らもいるのかと思いを馳せるようになった。

それからは以前よりちょっと衛生に敏感になったが、でも目に見えないものはふとすると意識の範囲から外れてしまう。たとえぶつかっても気がつくこともない。いちいち互いの行動を煩ったりテリトリー争いをすることがないのは、無関心の共存と言えるかもしれない。あるいは、結局互いに‘いない’ のと同じことなのかもしれない。

湯気も、ロウソクから燃え出る気体も、ダニも、一度存在を意識してみると、今までここになかったものがある という不思議な共存感覚がうまれる。線を引いたようにきちりと分けて権利を証明する必要があるこの領域問題で凝り固まった地球を、少し広く優しくとらえるコツなのかもしれないなと、消えゆく湯気を食べながら感じた。

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