尾崎豊さんと愛について
愛するという事は自分を捨てること
親子の熊が河原でエサを探して、子熊のために親熊が岩を持ち上げている間その下にいるサワガニを子熊が食べていた。その瞬間親熊が猟師に撃たれ弾が命中した。しかし撃たれても尚、子熊が下敷きにならないよう親熊は岩を持ち上げたまま耐えていた。
この話を聞いた尾崎豊さんは、その親熊の本能は愛なのかもしれないと思い、究極の愛とは自分を捨てる事から始めなければならないのではないか…?と考えたそう。
愛とは一体何なのか?尾崎豊さんを通して僕も考え始めました。今日は自分にとっての愛という言葉の意味について書いていきたいと思います。
愛とは与えること
"愛っていうのは自分よりも誰かの事を大切に思う事だよ。"
ディズニー映画「アナと雪の女王」で、雪だるまのオラフが凍えるアナの為に暖炉から離れず溶けながらもずっとそばに居るシーンで伝えた言葉。
この言葉も熊の話と通じる部分があると思います。
二つとも自己犠牲的な表現で、自分の命が危機に瀕していても相手を大切に思い行動し、命すら与えることも厭わない。究極の愛の形とは相手の為なら自分を捨てる事、、そう伝えている気がします。
もちろんここまで緊張感のある場面でなくとも身近に愛はありますが、どんな時でも愛という言葉には「与える」というニュアンスが含まれているんだと僕は思います。
愛とは感情ではなく技術である
尾崎豊さんが愛読していたエーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本の一文に
「愛するということは感情ではなく技術である」
という言葉があります。
医者が医術を学ぶのと同じように、愛とは一から学んでいかなければ身に付けられない技術であると語られています。
"あなたを愛していると言葉にする=愛を向けた相手を気にかけ、尊敬を持って相手を信じ、相手の存在に対して自分なりに責任を持つという事"だと僕はこの本から感じました。
だからこそ、愛を育む為には先ず自分自身を確立させなければならない。自立しなければならない。確固たる自分がいないと相手に対して与える事も責任を持つことも出来ないと感じています。
僕なりに、僕にとっての愛をまとめると
"愛とは一時の感情ではなく、自分以外の他者と長く繋がり寄り添う為の技術である。"
という感覚です。
自己犠牲的な愛に限らず愛の根底に流れているのは"自分以外の誰かが自分という存在を越えること"かもしれません。
これだけだと誤解があるかもしれませんが、自分を愛しているからこそ人を愛せるのではないかと思うのです。
愛とは答えのない言葉だと僕は思っていましたが、尾崎豊さんは優しい陽射しという曲の中で"答えは育むものである"と言っています。
愛や自由、夢について考えてきた尾崎豊さんはきっと、自分が答えにしたい事を見つけ出し、人生の中で答え自体を育んでいくしかないと言いたかったのだと思います。
愛とは何か?と問われれば答えるのは簡単ではありません。
しかし、人生を歩んでいく中で愛という言葉の捉え方も経験によって変わっていくのだと思います。
自分にとって愛とはどういうものなのか、その答えを僕も育んでいきたいと思いました。
あなたにとっての愛とは何でしょう?