石狩

ブラックゲイズハードコアバンド「kokeshi」のドラム。サポートはthe terminal stage/militarysniperpinfallなど。WEBライター・WEBディレクター、得意ジャンルは法律。

石狩

ブラックゲイズハードコアバンド「kokeshi」のドラム。サポートはthe terminal stage/militarysniperpinfallなど。WEBライター・WEBディレクター、得意ジャンルは法律。

最近の記事

kokeshi,メタルバトルジャパンを終えて

正直なことをいうと、バックボーンがハードコアやポストロックであり、メタルをあまり通っていない俺たちは、wackenについてほとんどわかっていなかった。 過去に、メディアのインタビューで、純一が「ソーセージが食べたいのでドイツでライブがしたいですね」などとふざけたことを言っていたので、そのとき大変酔っ払っていたこともあり、Xでメタルバトルジャパンの募集をしているのを見て、説明もロクに読まずに応募してしまった。 感覚的には「どうせ選ばれはしないだろう」と思いながら、毎年フジロ

    • 「死にたい」とかいうやつが飯を食う矛盾

      人生にピンチが来ると文章が書きたくなる。 2020年、俺は勤めていた上場企業を辞めた。社内競争に疲れ、自信をなくしてしまったからだ。 その後、都内の弁護士事務所で働くことになる。それから1年。 俺と相方Aが所長に呼ばれる。「出資してくれる人がいるからマーケの会社をはじめよう」。 上場企業で経験してきたシンプルな事業内容だったが、目標値が高すぎた。 俺は「無理ですよ、こんなの…」と答えた。でも所長と相方の「大丈夫、やれる」に押し切られ、自分の会社を持つことになった。

      • 東京生活10年を振り返るその⑦ 自律神経失調症を言い渡されてからバンドマンを辞めるまで

        心療内科で「あなた、自律神経失調症ですよ」といわれた時点ではまだ心は折れてはいなかった。今思えば、バンドに依存・執着していただけなんだけど。 「ここで耐えたやつが勝つ、ここが勝負だ」いつもそんな事ばかり考えていた。ピンチになればなるほど血液が沸騰していった。 そんな不屈の精神を持っていた俺が次第にバンドから興味をなくし、現場から消えていくまでの話。 腱鞘炎で手首が使えなくなった根本をたどれば、自律神経失調症になったのは「働きすぎ、練習しすぎ」が原因なので、物理的な意味で

        • 東京生活10年を振り返るその⑥-2 野心を持った男が壊れて心療内科編 朝から晩まで続く動悸

          前回の続き、悪夢のど真ん中。体に起こる異変に目を背けることが出来なくなって、ついに心療内科に行った。そこまでの壮絶すぎる物語。 たいていの人間はこんな体験、したくてもできない。 そういう点でいえば、やっぱり感謝している。 第4段階→得体の知れない焦燥感・不安感・突発的な動悸心療内科送りまで残り1ヶ月くらい。何も起こっていないのに焦燥や不安を感じるようになった。 例えるならば、「受験会場についたとき、受験票を家に忘れていることに気付いたときの焦り」のような、強烈に血の気

        • kokeshi,メタルバトルジャパンを終えて

        • 「死にたい」とかいうやつが飯を食う矛盾

        • 東京生活10年を振り返るその⑦ 自律神経失調症を言い渡されてからバンドマンを辞めるまで

        • 東京生活10年を振り返るその⑥-2 野心を持った男が壊れて心療内科編 朝から晩まで続く動悸

          東京生活10年を振り返る・その⑥-1 野心を持った男が壊れて心療内科編 終わりの始まり

          女が絡んでバンド終了、という何とも情けない結末を迎えた俺は「全員まとめて殺してやる」という強い意志を持ってドラムを練習するのだった。 「音楽」ではない。「音が苦」といったところだろう。楽しさなど皆無、自分と他人を苦しめるためにドラムを叩いていた。 先生からは、「負のエネルギーを練習にぶつけちゃダメだよ。音楽は楽しまないと、必ず自分に返ってくる」そういわれた。 先生のいうことはいつでも正解である。でも視野の狭くなっている俺には今さらどう音楽を楽しんでいいのかわからなかった

          東京生活10年を振り返る・その⑥-1 野心を持った男が壊れて心療内科編 終わりの始まり

          東京生活10年を振り返る・その⑤-2 メンヘラ彼女が出て行ってバンド崩壊編・心療内科まで残り6ヶ月

          今になっても胸が痛い。あの時の自分は完全に暴走していた。 詳しくは本文で書いていくけど、あのとき周囲の制止を聞いてしっかり休養を取ったりしていれば、今も通院をすることなんてなかったと思う。 今回も細かく刻んでいかないと長くなりそうなので、とりあえず、「メンヘラ彼女が出て行った話」と「それがきっかけでバンドが崩壊した話」を思い出してみる。 メンバーとの関係性が日に日に悪くなっていったバンドメンバーとの関係がこじれていくのは、たいていの場合双方に理由があると思う。すべてでは

          東京生活10年を振り返る・その⑤-2 メンヘラ彼女が出て行ってバンド崩壊編・心療内科まで残り6ヶ月

          東京生活10年を振り返る・その⑤-1 ドラムレッスン開始、メンヘラ彼女が出て行ってバンド崩壊編

          過去に一回だけインスタでつぶやいたことがあるが、自律神経失調症でもう7年くらい心療内科に通っている。まだ治ってない。 自律神経失調症というのは厳密には病気ではなく、自律神経のコントロールが効かないために起こる、体の様々な不調、といったものである。花粉症だって、「症」がついてるけど病気ではないよね。免疫が過剰反応しているだけで。 病気ではない、とはいっても、動悸・不眠・不安・のどのつかえなど、実際に体調に異変が起こるわけだから、見過ごせるものではない。 ではなぜ俺は自律神

          東京生活10年を振り返る・その⑤-1 ドラムレッスン開始、メンヘラ彼女が出て行ってバンド崩壊編

          東京生活10年を振り返る・その④西荻リンキィでバイトしてFLATでハードコアに出会う編

          カラオケバイト生活にはなんの不満もなかったが、「このままで俺は大丈夫なのだろうか、もっとできることはないのだろうか」という漠然とした不安はいつもついて回った。 ここではリンキィディンク・ハードコアとの出会いについて思い出して行こうと思う。 スタジオのアルバイトをいつも探していたドラマーはとにかく個人練にお金がかかる。2時間練習したら1200円、ガチでやるならそれを週5回くらいやらなきゃいけない。 生きてるだけでワープアなのに、そこからお金を捻出するのはとても大変だった。

          東京生活10年を振り返る・その④西荻リンキィでバイトしてFLATでハードコアに出会う編

          青春の箱アンチノックに再び出演して思うこと

          20代の東京生活の中で、青春といえるライブハウスが2つある。それがエラとアンチノックである。フラットは青春とは呼べないかもしれない。今も自宅だから。 何を持って青春といえるのか、それは「苦しみながら成長できたか」これに尽きると思う。 楽しい思い出のあるライブハウスはいくらでもある。でも「悩み、苦しんだライブハウス」であることが俺にとっては青春・財産なのだ。 アンチノックについてちょっと思い出してみようと思う。 八王子勢が卒業と共に都心に乗り込みはじめる学生時代、八王子

          青春の箱アンチノックに再び出演して思うこと

          東京生活10年を振り返る・その③カラオケバイト~バチンバチン太郎とバンド編

          新卒でLOFTでのバイトをはじめた俺は、あまりの辛さに3ヶ月ほどで仕事をやめてしまった。それだけでなく、「社会というのはこんな風に恐ろしい場所なんだ」とトラウマを植え付けられる形になった。 ここからは、カラオケバイトで少しづつ元気を取り戻していく話、kokeshiのコンポーザーであるバチンバチン太郎(あでる)とバンドを組むまでの話をしようと思う。 LOFTのバイトを辞めてからバンド活動が再開するLOFTでバイトしている間はドラムをまったく叩いていない。体力が常に限界だった

          東京生活10年を振り返る・その③カラオケバイト~バチンバチン太郎とバンド編

          東京生活10年を振り返る・その②学生卒業~都心生活開始編

          俺が20歳で専門学校を卒業する年、3/11の地震が起きて卒業式がなくなった。体育館の天井がはがれて落ちたのが原因だと聞いている。ここからは、八王子での生活を終えてからのフリーター生活の序章について思い出して行こうと思う。 当時のバンドメンバーに合わせて阿佐ヶ谷に引っ越す当時俺は高校時代の同級生とバンドをやっていた。その子は高円寺に住んでいたので、俺も学生を卒業したら家は高円寺でいいか、なんてぼんやりと考えていた。 しかし、正しい家賃相場が全然わからない俺は、物件選びでもの

          東京生活10年を振り返る・その②学生卒業~都心生活開始編

          東京生活10年を振り返る・その①学生編

          親をうまく説得して上京するなんとなく上京したくて適当な理由をつけて専門学校に入学した。学科はなんと「健康スポーツ科学科」。上京できればなんでもよかったのだが、親を納得させるにはスポーツトレーナーになる、というしかなかった。高校3年生の冬はスキー部の練習に合流して体をバキバキに仕上げていたからだ。今ではとても考えられない。 この時点ではプロドラマーになろうとかそんなことはまったく思っていなかった。「中村達也みたいにマッチョになって、ドラムは趣味で続けていけばうまくなるでしょう

          東京生活10年を振り返る・その①学生編

          死については覚悟していたつもりだった

          最近、群馬の「Black Rain」というバンドが好きで、なんとか対バンできないか、その方法を考えていた。 俺自身BABELでBlack Rainのライブはみたことがあったものの、メンバーとは直接のかかわりはなかった。ドラムのジロー君がたまにリプライをくれるくらいの関係。 4月に予定している毎年恒例の「花見ギグ」も、2月に入っているWALLのライブのどちらにも、Black Rainをブッキングできないだろうかと、周囲の人間に相談していた。対バンしたい、と「心の中で思ってい

          死については覚悟していたつもりだった