東京生活10年を振り返る・その①学生編
親をうまく説得して上京する
なんとなく上京したくて適当な理由をつけて専門学校に入学した。学科はなんと「健康スポーツ科学科」。上京できればなんでもよかったのだが、親を納得させるにはスポーツトレーナーになる、というしかなかった。高校3年生の冬はスキー部の練習に合流して体をバキバキに仕上げていたからだ。今ではとても考えられない。
この時点ではプロドラマーになろうとかそんなことはまったく思っていなかった。「中村達也みたいにマッチョになって、ドラムは趣味で続けていけばうまくなるでしょう」その程度にしか考えていなかった。
寮生活がはじまる
「一人暮らしがしたい」と言いにくい状況だったのと、特別希望もなかったので学生寮に入れられた。これが駅近のホテルみたいなところですごい好きだった。
部屋に個別に風呂はなく大浴場に入っていたのだが、今考えれば本当に贅沢だった。毎日銭湯に入れるようなものだったから。ああ、懐かしくて辛い。
八王子みなみ野・片倉、好きだ。今の家(久我山)も好きだけど、忘れることができない。
軽音サークルに入る
あんまり覚えていないけど、張り紙か何かをみて軽音部に入った。最近の友達と学生時代の話をすると驚くのだが、普通の軽音サークルというのはコピーをやるのが当たり前らしい。でもうちのサークルはオリジナルをやっている人がとても多かった。
そういう流れの中から自然と、「バンドといえばオリジナルなんだ」と考えるようになった。
ライブハウスでの初ライブ
友達とオリジナルバンドを組んで曲を作っている最中、先輩づてで「ライブハウスでライブをしてみないか」とのお誘いがあった。曲作りが追いつかなかったので急遽ニルバーナをコピーして出ることになった。しかも4人で。
ライブ自体は堂々とやれたのではないかと思っている。
しかし、対バンだった明らかに年上の人たちには完璧になめられていた。俺たちがスメルズをやったあと、次のバンドがセッティング中にスメルズを弾いていたのだ。超ムカついた。でも俺たちより明らかにうまいので何も言えなかった。
ここでようやく東京のレベルの高さに気がついた。「この時点ではプロになりたい」とかではないが「負けたくない」と思うようになった。そこから壮絶な練習の日々がはじまった。
毎日5時間の練習
部室にはスタジオとドラマー個人練用のスタジオがあった。スタジオはちょこちょこ使う人がいたけど、ドラマー用のスタジオを使う人はまったくいなかった。だから、毎日毎日そこに通って練習しまくった。17時に学校が終わったら21時までとか、今思えば贅沢な時間だったと思う。
当時の俺は今みたいに「できないことをできるようにする方法」を知らなかったから、とにかく無茶苦茶な練習ばかりしていた。超時間の無駄だった。今みたいにyoutubeが充実していなかったし、城戸さんに練習の仕方を習う前だったから、仕方ないんだけど。
学校が中途半端に忙しかったこと、家がみなみ野だから地味に終電が早かったことが災いしてまったくバイトには受からなかった。だから、余計にドラムを練習しつづけた。
「ムカつくから練習する」「負けたくないから練習する」ひたすらこれの繰り返し。後にわかるが、このころから25歳くらいまで、ドラムやバンドが楽しいと思ったことは一度もない。友達に遊びに誘われても基本的に乗らなかった。お金がなかったし、練習して苦しんで、自分を追い詰めるのが好きだったから。
カナミに「カラオケみんなで行こう」って言われたとき、いっておけばよかった。いまさらそんなこと思ってもどうしようもないけど。
リップスに金を払い続けた10代
10代はとにかくリップスでライブをしてノルマを払い続けた。月3くらいのペースで新曲も作らずにライブし続けていたので、バンド練をする必要もなかった。
八王子にはリップスとマッチボックスという2つのライブハウスがあったが、リップスに出続けていた。その理由は「大貫さんが褒めてくれるから」それだけ。マッチボックスに出るとダメ出しをされるから凹むことが多かった。
そこから何年もあとになって、「褒めてくれる人=バンドを接待してノルマを支払わせる人」「ダメ出しをしてくる人=バンドを育てたいと思ってくれている人」であることに気付いた。当時はダメ出しをされるのは嫌だった。どう解消していいかもわからなかったし。今は逆にブッカーにダメ出しされたい。けど、そういう人もいなくなってしまった。
まとめ
俺の10代終わり。とにかく金がないけどドラムのことばかり考えていた。たくさんライブをした。八王子はいい街だった。