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落果の汀

風は湖面を滑る時のような冷たさで、私を一巻きして過ぎていった。
その目指す先の彼方で、夕陽が今にも沈もうとしている。
薄雲の張った西の空に、艶のない黒が押し寄せている。
わずかに残った空色が、雲と夜と橙色で滲んでいた。
それは黒い大地の片隅の、小さく澱んだ池のように見えた。
せっかくの夕陽は、その澱みに落ちて濁ってしまう。
濁りの膜の向こう側で、辛うじて輪郭を保っていた。
落ちた果実が、水際でふやけているようだと思った。

こんなことを言った時、頷き共に笑ってくれたのはいつもあなただった。
私のつまらない感傷は、それで腐らずに済んでいた。
色形の悪い橙の実を、愛してくれたのはあなただけだった。



陽の名残を湛えた池は、潮が引くように静かに消えようとする。
熟れ損ねた果実を惜しむ者などなく、当然のように夜は進行していく。
そのあまりの自然さに、身震いがする。
澱みの底の果実は誰にも拾われない、そのことが恐ろしいと思う。

そんなことを言った時、共に恐れ悲しんでくれるのはいつもあなただった。
私たちはひしと身を寄せ慄き、そして澱みの底へ祈りを捧げた。
その祈りのある限り、水底で橙の、色褪せぬようにと願った。


そのあなたはもういない。遠く深いところへ沈んでしまった。
あなたは滑るように沈み、そしてやはり、その上を当然が過ぎていった。

それから、私はずっとここで立ち尽くしている。
あなたを吸い込んだこの澱みの前で、もう一歩も進むことはできない。
すぐに私もそこへ滲んでしまうだろう。きっと、急がなくとも。
それまで、私はここでうわ言のような祈りを捧げる。
色形の悪い、あなたの愛したこの橙を、その底まで沈める。
なるべくたくさん、暗い天蓋に覆われても寂しくないように。

ただ、この落果の汀で。

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木村敦
本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。