木村敦
筋も思想も体系も、全部気にせず楽しむことを短文学と称して日々の感傷を綴る。
風は湖面を滑る時のような冷たさで、私を一巻きして過ぎていった。 その目指す先の彼方で、夕陽が今にも沈もうとしている。 薄雲の張った西の空に、艶のない黒が押し寄せている。 わずかに残った空色が、雲と夜と橙色で滲んでいた。 それは黒い大地の片隅の、小さく澱んだ池のように見えた。 せっかくの夕陽は、その澱みに落ちて濁ってしまう。 濁りの膜の向こう側で、辛うじて輪郭を保っていた。 落ちた果実が、水際でふやけているようだと思った。 こんなことを言った時、頷き共に笑ってくれたのはいつも
手袋すらつけていない指は、もうハンドルの感触を伝えない。突風でも吹けばあっという間にバランスを崩してしまうだろう。その拍子にチェーンが外れてしまえば、このかじかんだ手で直すことはもう不可能だ。 寒さは夜の町を覆って、この世界から私の居場所を奪うように、肌の表面から少しずつ浸食し、心臓にまでその手を伸ばそうとしている。こんな小さな折り畳み式の自転車では、どこまで走ろうとも逃げ切れそうにない。 半月は地上に弦を向けて、先程からずっと私の行く先を浮かんでいる。寒さが凝固したよ
くれなずむ空は薄雲を浮かべ、朱に藍に染めては散らす。 渡る風は夏の残滓をすっかり浚って、路地の隅まで清澄で満たした。 こうしていつまでも座っている、私の鼻先を金木犀が嘲笑う。 今に冴えわたる月が現れ、心地よい寒気を降り積もらせるだろう。 肌が湿っていくのを感じながら、私は瞼を閉じる。 何も映さないその暗幕の中に、ずっと何かを探していた。 そうしている間に過ぎた季節が、朝が、雨が、閃いては消えてゆく。 手を伸ばしても掴み損ねるばかりだったそれらが、今また閃く。 開く限りの両目
秋なので、クリエイターページに固定した記事を変更した。季節ごとに物語を書くつもりでいたのに、すっかりサボっていた自分への戒めとして。夏の後ろ姿が見えなくなる前に、手向けのようなものが一編書けたらいいな。
これは私を殺す物語になる。 退屈と眠気が充満している教室の中で、訪れた強烈な死の予感に、私はただ胸を押さえていた。教師の進行を待たず先んじて読み終えた時、予感は確信へと変わっていた。 李徴の最後の叫びが脳内でいつまでも木霊する。彼の、月夜にあげた号哭は、まさに虎の爪牙のような鋭さを以て、私の胸に深々と突き刺さった。感動したことを比喩しているのではない。李徴の悲劇に同情したのでもない。胸に鮮烈に走る感情はただ私自身の苦しみであり、それはほとんど物理的な痛みを伴っていた。
頭が冴えなかったので、満月にかこつけて「山月記」という劇薬を飲んだ。これが本当に良く効く、人死にがでそうなほどに。 作中に月の色形の詳しい描写はない。満ちていたのか、欠けていたのか。責めるような寒月か、狂人を労わるような金色か。 あなたはどう思うか、聞いてまわってみたいものだ。
こちらは昨年末に行われたイベントについての記事となっております。 開催時、該当地域ではコロナに関する規制はありませんでした。しかし直後に再び蔓延防止措置がとられたため、記事の公開を延期していました。 2022年4月現在、雪は解け規制もありません。またイベントの開催を志す人もきっといるでしょう。そうした人々にとって、当記事が参考になればと願い、記事を正式に公開します。 2021年12月18日 岡山県西粟倉村にて、オープンマイクイベント「コミュニティ茶屋wa」が開催された。今
この日を迎える度、どんな顔をしていいやらわからないという気持ちになる。 無邪気に喜ぶような年齢ではないし、祝いの会のようなものが行われることもないので基本的に普通の日と変わらない。出生に歓喜できるような性格ではないし、そんな輝かしい人生でもない。 それなのに。この日が普通に過ぎ去っていくのが、何となく、味気ないなとも思う。例えば綺麗な月が出ているとか、気持ちのいい風が吹いているとか。そんな些細なものでいいから、何か特別な感慨をもたらすものを欲してしまう自分がいる。 た
これはさる公募にて落選したエッセイに少しだけ手を加えたものです。ちょうど盆なので気まぐれにここで供養してみることにした。稚拙さや媚びが目立ってどうも居心地の悪い文章だなと思う。テーマにも半端に逆らっていたな、そういうところが私の悪い癖だ。 しかし当分何か書けそうにないので、お茶濁しに投稿することにした。暇つぶしの投稿ですが、暇つぶしにでも使ってくれれば幸いです。 *** 「ここには何もない」 この地域の人々は、皆口を揃えてそう言う。確かに映画館がない。お洒落なアパ
口の中に血の味が広がる。 左腕を伝う血液を舌で受け、肘の辺りから自分の腕を見上げた。青白い、死んだ魚の腹のような色をした細長い腕。その、手首より少し下の裂け目から、この赤い水は湧き出している。それが幾筋かに分かれながら、ちろちろと流れ落ちている。 流れる途中で、いくつもの傷痕をまたいでくる。小さく隆起したそれが連なる様は、地層の断面を見ているようで私は気に入っていた。小さな赤い流れはこの隆起で、度々滞る。そしてすぐに決壊する。それがまた細かい筋に分かれてはらはらと流れ
夢の中の私は少年で、同じ年頃の子供らの群れにいた。やたらと重たい色をした校舎の壁が酷く私を圧迫し、無邪気な他の子らの声は膜の向こうで鳴っているように遠い。教室は曖昧な私の意識を反映したように、隅の方でぐにゃりぐにゃりと、ところどころ歪んでいた。 私はただ帰りたくて。まだそれが出来ないと知っているから、イヤホンを両耳に刺した。あの甲高く光沢のある金属質の笑い声や、木製の床を椅子が引っ掻く音。避けようとするほど鋭さを増すあの種の音が、鼓膜の先にある柔らかいものを突く。俯きなが
やぎ座について知っていること。黄道十二星座の一つ。英語でカプリコーンと呼ぶこと。上半身がやぎで下半身は魚。小学生の頃、理科の教科書をめくって手に入れた知識はこれくらいだった。 それ以上深く調べてみようと思ったのは、あの頃無節操な好奇心を持て余していたことも理由の一つだが、やはり私にあてられた星座がやぎ座だったことが大きい。 小学生向けの簡易な天体図鑑に載せられた黄道十二星座についてのページ。そこには想像したものとは違う、歪なやぎの姿があった。他の、おうし座とかしし座だと
しばらく文章を書くことから遠ざかっていた。そう書いてから極めて事務的なメールはいくつも書いたことを思い出したが、これは私の中では文章には含まれないらしいと気がついた。 文章を読むことからも、少し距離を置いた。小説も、評論も、史料も、あらゆる文章を読まなかった。それでも当たり前に世界は回っていて、そして残念なことに、私も回ることが出来てしまうのだった。 その代わりに、音楽をたくさん聴いた。部屋の中で、車の中で。スピーカーから、ヘッドホンをしながら。誰かが歌ったり、私が歌
ローファイな日常 ノイズに濡れた言葉 塞いだ耳 重たい髪 なけなしの若さを 惰眠が貪って 逆らうように 朝まで起きてる 夜行バス 深夜のFM 置き去りの缶コーヒー なおざりな家事 そういうものばかり 好きになってく 太陽が昇る前の そこで静かに息継ぎをする
いつもよりも早い時間、チャイムの音を合図にしてクラスメイトたちはいそいそと席を立つ。試験期間中に与えられる普段よりも長い放課後を、真面目に勉強にあてるもの、遊びの計画に浮足立つもの。いずれにしても、みんなそそくさと教室を出ていこうとする。 私は、ぐずぐず荷物をまとめる。文房具と少しのテキストしかない、やけに隙間の多いカバンをいつまでもひっかき回している。まだこの部屋に残っているのは、休憩時間中もずっと机に突っ伏しているあの子や、要領が悪くて意地悪されがちなあの子。最近グ
その日は大きめの低気圧がやって来ていて、予報通り空は一日中暗い雲に覆われていた。数時間に一度、雨風が窓を強く揺らしては去っていくのを、私はずっと布団の中で聞いていた。 昔から空模様と体調が比例してしまう体質で、せっかくの休日に何も出来ないまま。それもあと四時間ほどで終わってしまう、という頃になってようやく布団から抜け出し、せめて空っぽの冷蔵庫をどうにかしなければ、と遅めの買い出しに出かけることにした。 やけに光の通らない夜だ。見渡す限り人家の無い、こんもりとした黒い塊