知った顔してる人よりも、それはなあに?と訊く人のほうが私は好きだ
私は自分の知識と情報とに客観性があるのかに自信が無い。いつでもだ。これこれを前提としている、という意識は常々持つようにしてはいるが、前提は揺らぐものであり別軸の登場により簡単に瓦解するのだ。杞憂の話をしているのではない。わたしは「そんなの当たり前じゃん」と「みんな普通そうだよ」の2文が大嫌いなのだ。物心ついた時から毛嫌いしているのだから筋金でも入っているのだと認識している。
倫理に関すること、こと文化的な倫理感覚とやらに言及する際の前提としてそれら2文を持ち出すのは頷ける。倫理的なものは自己判断よりも他者規定によって外側から埋められて形成されることが大半だからだ。無批判にそれを受け入れることに浅薄な脳みそめ、と悪態をつくほどわたしは人の善性を疑いはしない。
だが倫理的なものの範疇以外でこの2文を使用する者達に共通するのは『ロイヤル・ウィー』、自分個人の価値判断にすぎないことを三人称複数の主語にすり替えて自己を隠しながら相手に理解を迫る。理解などという高尚な次元でさえない、「(おれにとっては)当然だよ?常識を知らないきみがへんだよ」というわがままの押しつけである。
たまったものでは無い。
こういった気持ちは社会に出てからは実はあまり遭遇せず、なぜなら自分の属するコミュニティは概ね自分と近似値のもので構成されてゆくようになるからであるが、ごくたまに弾みのようにこういった発言に出会うと、しばしば遭遇していた頃よりもよりひどいゲンナリを感じてしまうものである。あるいは冷笑、あるいは諦観。それらすべてに定通するのはおそらく太宰の失格の中の例の一文、「世間じゃない、あなたでしょう」。
自分の頭で考えて、自分の責任下で言葉を出し整える、そういう思考と文章をわたしは愛する。
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