科学的知見・学問的背景と日本語教育学としての哲学的な理論的思考
はじめに
今、夏の期間で、ぼくは集中講義に勤しんでいます。集中講義では、日本語教育者であるぼくは、日本語教育者の「後輩」である受講生の皆さんに、科学的知見や学問的背景を「選択的に」踏まえたぼくの考えを話しています。この記事では、科学的知見・学問的背景と日本語教育学としての哲学的な理論的思考という話をしたいと思います。
1.集中講義のおけるわたしの話
集中講義におけるぼくの話は、科学的知見・学問的背景を踏まえた上での一日本語教育者としての理論的思考(日本語の習得と習得支援の原理の探究)です。そこでは、日本語学や社会言語学や語用論などの知見や、人類学や社会学や心理学で論じれられている言語、社会的現実、人格、コミュニケーション成立の可能性などについての知見や、言語をめぐる哲学的思考を踏まえています。そして、それらを踏まえて一貫した理論的思考に統合したいので、「踏まえる」というのは必然的に「選択的」となります。ただし、その場合の「選択的」というのは、「都合のいいものを見つけてただ引っ張ってくる」ということではなく、科学的な知見についても学問的な背景についても広範に渉猟し、比較・対照した上での「選択的」です。ただ、やはり、その一貫した理論的思考を志向する「選択」は、やはり、ぼくの言語学習/習得者としての経験や、言語教育者としての経験や、日本語習得途上の日本語ユーザーとの交流経験などが影響した「方向」が入っているでしょう。
2.科学と理論的思考の違い
2-1 科学
現代の科学は、シンプルに言うと論理実証主義という基盤の上にあります*。論理実証主義は、研究分野という「ナワバリ」を作り、さらにその中で研究関心や研究テーマなどの「より小さなナワバリ」を作ります。そして、その「ナワバリ」の中で実際のデータや証拠に基づいて真理や真実を探究しようとするわけです。そんな事情ですので、科学というのは、どうしても「部分主義」となって、決して「全体」や「総体」に目を向けることができません。
*最近の質的研究というのは、いわゆる論理実証主義ではありませんが、本記事の理論的志向との対比で言うと、実証主義と「部分主義」という部分で、どちらかと言うと科学のほうの「仲間」になります。
2-2 理論的思考
日本語教育学を日本語の習得と習得支援の原理を一貫した理論的思考として探究し考究する学問と考えるならば、個々の分野の探究でしかない科学やその知見を日本語教育に「応用する」ということができないのは当然です。一貫した理論的思考としての日本語教育学は、さまざまな関連(科学)分野の知見や思考や、哲学や人間学の学問研究を渉猟した上で成り立つ学問です。それは、全体を言葉を尽くして整合的に説明しきるということを目指しています。
そして、科学や学問を「渉猟」することがマナーです。一つの「ナワバリ」でわかったことを実践に応用するというようなもの、あるいはその寄せ集めではありません。「渉猟」をしないと、科学や学問に対して「失礼」です。また、それよりもむしろ、「渉猟」することで、経験だけに基づいては気がつかないことやわからないことを教えてくれたり、経験でぼんやりと感じていることを科学や学問のディスコースが言語化することを教えてくれるという面が多々あります。
ぼくが以前から言っている、野生の感性と科学的・学問的知性の融合です。この融合というのないと、いずれが優勢でも独善的になります。ぼく自身は、そんな営みとして日本語教育学を実践しています。
2-3 日本語教育学という理論的思考における合理主義
日本語教育学という理論的思考にはもう一つの側面があります。それは、合理主義です。簡単に言うと、理論的思考から得られた原理を、達成可能で実施可能な教育構想に結びつけることです。あるいは、理論的思考をそのような構想に結びつけられるように収束させることです。そのような側面が担保されないと、理論的思考は、単なる机上の空論、議論好きの単なる議論に終わってしまいます。
3.「哲学的」の意味
3-1 科学や学問を踏まえること
ぼくが「哲学的」に込めている意味の一つは、すでに上で言及しているように、日本語教育学という哲学的な理論的思考は科学的な知見や学問研究を踏まえての考究であり、理論化で、そうでなければならないという趣旨です。科学や学問を踏まえない「哲学的な理論的思考」は「哲学的」とは言えません。科学や学問を踏まえないと憶測・空論(speculation)になってしまいます。そして、議論を交わすときは、自身の思考が踏まえている科学的根拠や学問的根拠を出し合わなければなりません。
3-2 対話性
「哲学的」に込めているもう一つの意味は、対話性です。そして、日本語教育学のような実践が関わる理論的思考をめぐる対話では、科学的根拠や学問的根拠を提示するとともに、経験に基づく感覚を持ち出すことも奨励されます。お互いの経験を持ち寄ってそれに基づく感覚を確認したり、対照し対比したりすることで優れた理論的思考へと高まっていくことが期待されます。その意味で言うと、この哲学的な理論的思考の対話には誰でも参加することができます。
4.日本語教育学という哲学的な理論的思考
結局、日本語教育学という哲学的な理論的思考は、相互の野生の感性と科学的・学問的知性を織り交ぜた対話の実践ということになります。そして、言うまでもありませんが、その対話に参加する者は、(1)「あなたの理屈はあまりよくわからないがおっしゃっている原理には賛同できる」と当面言うこともできるし、(2)「あなたの理屈に反駁することはできないがおっしゃっている原理には現在のわたしの感覚としては賛同できない」と当面言うこともできます。ただ、(2)の場合は、そのように言うことはOKなのですが、「それならあなた自身の考えはどうなのか」が次にやがて必ず問われます。「当面」というのはそういう意味です。
この「当面」からわかるように、この対話は参加者一人ひとりが自分として納得できる理論的思考を構築することが目的です。「賛同できない」で終わってはいけません。
その一方で、この対話は、決して、「先生」が「正しい考え方」を「学生」に提供するというようなものでもありません。もちろん、「先生」という立場の人は、「学生」という立場の人よりも、「理屈」(科学的知見や学問背景)でも「経験」でもしばしば「重厚」でしょう。しかし、「先生」も「学生」の野生の感性にしっかりと耳を傾けなければなりません。また、「先生」が学び及んでいない学問知識が「学生」から提示されたらそれをしっかり聞いてそれがどのように解釈できて習得と習得支援の一貫した理論的思考と関連するかを「学生(たち)」といっしょに考えなければなりません。
「先生」と「学生」をこのようにカギ括弧付きにしたのは、いずれも単なる立場であって、日本語教育学という哲学的な理論的思考という対話の実践においては実際には両者は対等だからです。
ぼく自身は、そんな姿勢で集中講義という、仲間との対話に臨んでいます。
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