小説「サヨナライツカ」の感想
前提
映画を映画館で2回観ている。
おもしろかったから、感情移入してしまった。
DVDも購入して、繰り返し観た。
小説に興味はなかったので、ずっと手を出さなかった(映画のほうがおもしろいに決まっている、これ以上、心を揺さぶられることはないはずという思いから)。
『三行で撃つ』に文章力を上げたいなら、物書きであるなら「毎日2時間読め、日本文学、海外文学、詩、散文?を毎日」と書いてあり、小説を読み始める。
おすすめ小説をググったり、本で取り上げたりしている中から辻仁成さんの「海峡の光」を見つける。
思いのほか、おもしろかったので、連鎖読みで「サヨナライツカ」に手を出した。
映画のほうがおもしろい
主人公と透子が出会う場面から始まる。
映画では主人公と光子の会話から始まる。
小説と映画を比較するつもりはなかったが、本記事を書くにあたりついつい出てきてしまうかもしれない。
小説を読んでいるときに映画のシーンが思い出されてしまう。
良い悪いではなく、なんだろう、読んでいても「映画との違い」を探してしまう。
純粋に小説を楽しめたのかわからなくなるが、あまりおもしろくなかった気がする。
友達や過去の自分にすすめられないから(二部に進んで、少しして読むのをやめてしまった。10日ほどしてからまた手に取り、1日で最後まで読んだ)
ただ、良かった点や新しい点はある。
言いたいことは「映画と一緒にしてはいけない」
小説は小説の良さがある。
文章の美しさがある。
自分だけの想像でイメージできる、シーンをつくれるが、どうしても映画が邪魔をしてくる。
小説を映画と切り離して、もう1つの物語として読むにはどうしたらよかったのか。
読み終えたあとにそんな気持ちになった(正確にはこの文章を書いていて、気づいたこと)。
繰り返しになるが小説にそもそも期待はしていなかった。
それでも、小説としておもしろかったのか?
読む力量が追いついてなかったのでは?
映画を観なければどうなっていたのか?
もちろん、映画にないシーン「沓子からの手紙」を読めたのは良かったかもしれない。
✔︎どうしても映画のシーンが心に残ってしまっている
バーの出会いのシーン
突然の訪問&性シーン
空港での別れのシーン
印象的な再会のシーン
主人公のセリフ(バスを待つ、あの女、会えば会うほど)
最後の愛の言葉の繰り返し
まとめると以下のとおり。
小説はあくまで映画の補足に過ぎなかった(旅行代理店が悪徳商法の立ち位置を知った)
好青年ファンクラブなるものがあった
✔︎ 映画と小説は互いに補完し合っている
理由4つ。
映画では事細かに説明をしない(旅行代理店、ファンクラブ、なぜニューヨークなのか、面倒を見てもらっている男の存在)
映画のシーンが小説にない
小説のシーンが映画にない
映画をつくった人が素晴らしい気がしてきた
映画監督の他の作品を知りたい。
そもそも映画監督の名前さえ知らなかった。
今調べたら「「イ・ジェハン」だった。
『私の頭の中の消しゴム』を映画化した人だ。
『私の頭の中の消しゴム』はマンガ版を読んだことがあるが、おもしろかった作品だった。
原作を映画化するのが得意な人なのかな。
他にも映画を出している。
「たぶん、おもしろいのでは」と想像できる。
今、小説をもう一度、手にしてパラパラとめくってみた。
目頭が熱くなるのがわかる。
でもそれは小説からのものではなく、映画を思い出しているのだ。
✔︎ 小説は映画を補完する「資料」のような気さえしてくる
小説が原作であったはずなのに、映画が「本丸」になってしまっている。
もちろんは読み方、観方はそれぞれの自由だ。
映画をもう一度、観たくなってきた。
新しい発見はあるのだろうか、ないのだろうか。
映画にも小説にも発見はあるのだろうか。
自分の想い出が甦るのだろうか(サヨナライツカを観たとき、自分の恋愛と重ねていた、ほろ苦い思い出と)。
✔︎ もう1度読み返したくなる作品
そういう意味では小説も映画も良い作品である。
1粒で何度も味わえるから。
お米のように飽きないから。
✔︎ 小説の新しいところ
二部構成
25年の月日は同じ
さらに4年後の再会も同じ
結婚しているシーンは豊の回想とわかる(小説の最後で回想シーンがあるから)
文章はやはりおもしろい「海峡の光」で感じたおもしろさは間違いではなかった
あとがきに「作品」のことを「生まれた」と表現し、作品が自身の人生に影響を与えたと書いてある
自分で生み出したものに自分で影響される、そんなものがあるのだろうか
光子の存在感が薄い(映画では沓子と同等クラスに見えた、石田ゆり子の才色兼備さか?)
西島秀俊はぴったりだった、中山美穂、石田ゆり子も良かった
✔︎ 映画化されたとき「小説と映画」の取り扱い方の注意点(自分へむけて)
細かいことをごちゃごちゃ考えなくても良い
映画と小説は別物、同じではない
映画は観て感じる、小説は読んで想像する
想像の余地があるのが小説=何を想像するのか、ビジュアルである
映画は想像するところはないのか → ある。細かく説明されない話や設定、画面に映らないシーンは想像するしかない
映画は「小説のビジュアルの想像を妨げる」、小説は「映画の画面に映らないシーンの想像を妨げる」 → お互い補完しあっている、何を想像することを。
想像するのがおもしろいのでは、何から何まで知りたい方、疑問を解消したい方は両方みると良いのかもしれない
「映画 → 小説」の順番で見たことを後悔しているのか → 後悔していない。映画も小説も良かったから(小説は文章が良かった。想像することは楽しめなかったが、文章は楽しめた)
2Dだったものが、3Dになってしまった感じがする
映画では「主人公の気持ち」を想像できる。小説では「主人公の気持ち」は書かれているから想像できない(読むことがタスクになる可能性も)
✔︎ 逆パターンで小説「ノルウェイの森」を観てから、映画「ノルウェイの森」を観たときはどうだったか
小説は最高におもしろかった
映画は最高につまらなかった
→ 自分の想像したビジュアルと違うから
→ 勝手に想像で補完したシーンが違うから
→ つまり、違う作品になってしまっていると感じたからなぜ違う作品なのか →
小説について:細かい設定が文章で読める、ビジュアルやは自分で想像
映画について:小説で細かい設定をしたにも関わらず、ちょっと異なる設定とビジュアル → 違うものと感じるのは当然(原作が変えられてしまっているから)原作が良くて映画を観たのに「変えてくれるな」という印象を持つのは当然。映画では細かい説明は省かれている状況。違う作品を見ている感じがある。
「映画 → 小説」だと「小説のビジュアル想像はできない」 → 映画でビジュアルが決まっているから(映画を原作として感じてしまう)
小説で映画の細かい説明をされているので、興味深く読める
だから映画 → 小説のパターンがすんなりくる、ビジュアル想像はできないが変に想像するよりは良いかも
国語の問題 → 主人公はどんな気持ちだったでしょうか?(書いてないか)映画でも説明されてない
✔︎ 抽象化すると
「映画 → 小説」は「大雑把 → 詳細」である(小説が映画を補完、ビジュアルは確定、主人公の気持ちやストーリーは見えない部分の想像はあるにせよ、確定はしてないので、小説で説明してもらう感じ)
「小説 → 映画」は「詳細 → 大雑把」になる(映画が小説を補完できない、ビジュアルがそれぞれに創られ、ストーリーは確定しているから)
ググればいろんな意見がある
小説と映画は別物として楽しむ → 別々のものとして楽しめない
原作者と映画監督は違うから → それはそう
先に見たほうのインパクトが強い。
一緒くたに「こうだ」とは決めれない。
条件が異なるから当然か。
✔︎ 場合分け
小説がおもしろい
→ 映画はおもしろくない:ノルウェイの森
→ 映画もおもしろい:ハリーポッター、明日僕は昨日の君にデートする小説がつまらない
→ 映画はおもしろくない
→ 映画はおもしろい映画がおもしろい
→ 小説はおもしろくない:遠き落日
→ 小説もおもしろい:サヨナライツカ、想像では「マディソン郡の橋」の小説もおもしろそう映画がつまらない
→ 小説もおもしろくない
→ 小説はおもしろい
✔︎ マンガは?
マンガがおもしろい
→ 映画もおもしろい:ドラえもん、ブルージャイアント
→ 映画がおもしろくない:はだしのゲン
以上です。