【読書感想文】『溺れるものと救われるもの』『くらしのアナキズム』
プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』と松村圭一郎『くらしのアナキズム』とを立て続けに読んだ。
この2冊を手にとったのは偶然なのだが、一方は国家的な虐殺を生き延びた経験の考察の書であり、他方は国家の存在そのものを問い直す書である。
2冊を読み通すと権力を志向してしまう人間の性について考えさせられる。
プリーモ・レーヴィは以前に『周期律』という非常に美しい短編集を読んだことがあった。自伝的な作品で、そこでは深くは触れられなかったものの、アウシュヴィッツの生き残りであることが書かれていた。
アウシュヴィッツにまつわる作品はこれまでなんとなく避けてきたと思う。子供の頃に観た『ライフイズビューティフル』という映画がトラウマになっていたのだ。
書店でプリーモ・レーヴィの名前を見つけ、短編小説であると期待して手にしたのがこの本だった。
アウシュヴィッツの経験を語った本だとわかってそれを書棚に戻すことは、単に気分の問題であることを超えてこれまで避け続けてきたテーマをまた避けるのかという葛藤を引き起こした。
しかし、大人になるにつれてこうした縁や偶然をすんなり受け入れられるようになってくる。意図しなかった方向にこそ発見はある。
印象的だったのは「灰色の領域」と題された2章だ。
それまではアウシュヴィッツには黒と白、つまり迫害者たるドイツ兵と犠牲者である囚人しかいないものと思っていたが、それは歴史によって単純化されたイメージなのだとわかる。
私たちは物事を善と悪、敵と味方と切り分けることで馴染みのある思考の枠組みを適用したがるが、実際にはすべての物事には灰色の領域が存在する。
囚人の中には特権を与えられ、ラーゲル(強制収容所)に協力する者たちがいたという。彼らは囚人でありながら他の囚人よりも優遇され、ラーゲルの指示に従って(また時に過剰に)暴力を以って囚人たちを管理した。
囚人の多くはそうした権力を求めたという。そして実際にそのように優遇された囚人の方が生き残る確率が高かったのだ。
映画などでみるのは過酷な状況の中でお互いを励まし合う囚人たちのイメージだ。もちろんそれも真実に違いないのだろうが、迫害をされた囚人たち同士でも権力を巡る暴力があったというのは衝撃的だ。
ここで一度『くらしのアナキズム』の方に話を移そう。
この本の中では国家の役割というものが問い直されているのだが、まず古代の国家の成立についての一般的なイメージに疑いを投げかける。つまり、人々が定住して農耕を始めると集住するようになる中でリーダーが出現して、自然と国ができたと私たちは考えてきたが、実際にはそのような国家は疫病や環境変化という定住生活に付随する困難に対処できず長続きすることができなかったのだという。
では本格的な国家の成立を可能にしたものは何かというと、それは文字なのだという。文字という記録装置が発明されたことで人々は徴税から逃れることができなくなり、人々は国家と強く結びつけられるようになった。
国民は生産者と非生産者(官吏・兵士・貴族など)に分かれ、生産者は非生産者を食べさせるために余剰に生産することが求められるようになった。
すると、人々が集住し、生産力を高めることは自然の要求ではなく、権力を支えるために必要なことだったのだとわかる。
17世紀に社会契約説で国家による統治の必要性を説いたホッブズの考えは、自然状態では人々は闘争状態に陥るからそれを調停する存在として国家が必要なのだというものだ。
しかし、実はそもそも権力の存在しないところには闘争は起こらないのではないだろうか。権力があるからこそ人々は争うのではないか。
というのも、権力を保証する基本原理は独占だからだ。何か貴重なものや必要なものを独占していることが権力の裏づけとなる。
この本の中ではしばし国家を持たない民の話が引き合いに出されている(その多くは狩猟民である)。他の本でも読んだことがあるが、狩猟民の中には首長や長老のような高い立場の人間は確かに存在するが、彼らは決して権力者ではない。物を独占するどころか率先して分け与えることが求められるのだ。だから狩猟民の首長はいつも一番持たざる者なのだ。
日本も縄文時代までは争いのない社会であったと言われているが、それはすなわち権力が存在しなかったということなのかもしれない。
そう考えると、私たちの多くが持つ夢や目標も実は単に権力への欲求なのかもしれない。こんなにも多くの人がお金持ちになりたがる世の中というのはちょっと変だ。多様性もへったくれもあったもんじゃない。
しかし、権力が独占と結びつくなら、権力を志向しない自由はほとんどないと言ってよい。独占とは奪うことであり、それを志向しないということは奪われるということなのだ。奪わなければ奪われる。その制度の一員である限り、争いの外でのんびりというわけにはいかなくなる。
すると実際にはまず暴力(収奪)があり、独占が生まれて権力ができる、するとホッブズの社会契約の実情は、人々は闘争状態に陥るので、その調停者として権力が正当化されるようになるということなのではないだろうか。
『溺れるものと救われるもの』に話を戻す。
囚人たちは常に奪われ続ける状態だった。だから極限状態に置かれた彼らが権力を志向したことに対する道徳的判断は微妙なものにならざるを得ない。だから彼らがどれほど残酷であったとしてもそれは灰色の領域だったと言わざるを得ない。
もっと微妙なのが“特別部隊”と呼ばれた人たちだ。彼らの仕事は、ガス室に送られる囚人たちを混乱させないように誘導すること、そしてその死体の処理だ。彼らは任務にあたる数ヶ月の間はたらふく食べることができたが、その後は必ず殺される運命にあった。彼らは死体から金歯を抜き取り、髪の毛を刈り取った。彼らは常に大量のアルコールを与えられ、正気を失いながら作業に従事していた。
このおぞましい出来事について安易に語るのは憚られるのだが、一つの傾向を引き出してみよう。それは、人は権力構造の下では自らを家畜化させる傾向があるということだ。そして自らを家畜化した人間は他者をも家畜扱いするのだ。
この自己家畜化の傾向は、人間が農耕牧畜を始めた時から始まっている。
農作物や家畜動物の世話をするために自分自身もその土地を離れることができなくなってしまったのだ。しかもそのことによって生まれた富はより上位の権力者に搾取され、その独占状態を強化する。
家畜であることのメリット、ある意味で種の保存が約束されている点だ。人間は稲や豚が決して絶滅しないよう、それらの種の繁栄を助けているとも言える。少なくともクマやオオカミからは守ってくれるのだ。それは人間においても同じだ。権力に従っていれば、外敵から守られるし、少なくとも現状を維持することはできるように感じられる。非常に雑な一般化をすれば、自分より上位の規律(コード)に従っている限り漠然とした安心を得ることができるのだ。
ラーゲルの特別部隊がこの哀しき性質を引き継いでしまったのかは想像が及ばないところではあるが(なにせ皮肉にもラーゲルは種の殲滅を目的としていたのだ)、社会の中ですっかり家畜化されて生きる現代の私たちは、ラーゲルの特別部隊の置かれた状態を遠い歴史として安心して眺めることはできない。
経済を第一主義とする現代社会で自分の仕事を善だと言い切れる人はなかなかいないだろう。そこには何かしらの搾取や暴力、汚染が含まれている。
その仕事のために身を粉にして働き寿命を縮め、それをラーメンやアルコールで慰めてさらに寿命を縮める現代人の状況はラーゲルの特別部隊の仕事と程度の違いは大きいが(そして重大だが)、違う性質のものではないようにも思える。
だが実際に今の社会を生き延びるのはそうやって権力にありつけた者ばかりなのだ。この事実が状況を非常に悪いものにしている。
“最良のものたちはみな死んでしまった”
プリーモ・レーヴィはこの本を書いた後からうつ病を再発し、刊行の一年後には自死してしまう。
ある意味では彼もまたアウシュヴィッツを生き延びることはできなかったのだ。
私たちがこの本から受け取れるものは何か。
大きな悲しみ。それだけだ。
だがそれが大事だとも思う。
わかりやすくて役に立つ教訓を得てすっきりしてしまう方が良くない。
抱えきれない悲しみを受け取る。ただ受け取るのだ。