「振ってくれてありがとう」の功罪
昨夜、サントリーホールでN響B定期を聴いてきた。
一般参賀に参加するのは最近完全にやめてしまったが、ロビーに出て入口に向かう途中に大きな拍手が沸いたので、おそらくブロムシュテットが再度出てきたのだろう。
拍手を贈っている人の中にはこう思った方も多いのではないか。
今日も元気に振ってくれてありがとう。
演奏の出来不出来なんてどうでもいい。
そこにいてくれるだけでいい。
私もこのような心境になったことが20数年前にある。
朝比奈隆に対してだ。
「朝比奈」というのも令和のいまではプロレスファンにとっての力道山みたいな大昔の人かもしれないが、朝比奈を生で聴いた世代は全然現役でコンサート通いしている。
朝比奈の一般参賀は凄かった。あそこから一般参賀の習慣が根付いたのではないかと思うくらい、毎回毎回飽きずに一般参賀が起きていた。
「録音をチェックせずに販売許可を出していた」と言われるくらい生前に膨大な録音(それも同曲異演)が出ていた朝比奈だが、その多くはライブ録音。
聴いてみてゲッ!と思わされるのは、終曲後のオタクの野太い雄叫び。当時の朝比奈に対するヲタの熱狂ぶりはいまの地下アイドルへのそれをも上回る。
あれを聴かされるのが嫌だから朝比奈の録音に手が伸びないというのもある。
何はともあれ、当時の朝比奈に対するファンの熱狂は凄かったのだ。
それは全肯定の凄さである。
いまの「推し」の感覚に近い。「朝比奈さん、今日も元気でいてくれてありがとうー!」の気持ち。演奏の出来不出来などどうでもいいのである。
私は昨夜のブロムシュテットを見て(聴いて、ではない)、似たような心境になっているファンも多いのではないかと考えた。
内心「朝比奈現象の再来か」と思ったものだった。
全肯定になってしまうと、批評の対象から外れてしまう。
現在も新聞のコンサート評が続いているのかしらないが、いまのブロムシュテットの演奏を否定的に書ける空気は存在しているのだろうか。
先日の『音楽の友』におけるブルックナー座談会では、朝比奈隆の名前が出てこないというので話題になった。
朝比奈を生で聴かなかった世代の座談会だからそうなったのかもしれないが、私はあれだけ日本のクラシック界を熱狂させた朝比奈について(ましてやブルックナー特集で)何の言及もされないということに違和感を覚えた。
褒めろと言ってるのではない。
「朝比奈のブルックナーはヴァントやチェリビダッケに並ぶ世界レベル」
と語っていたクラシックオタクがものすごく多かった(評論家でもそうだろう)。
それが手のひらを返したようにそんなことを言う人はいなくなった。
その総括なり検証が必要ではないかと思うのである。
朝比奈のCDで雄叫びを上げてた人たちはいまどこにいるのだろう?(普通にサントリーホールやオペラシティにいるのだろうが……😅)。
朝比奈に限らず、昭和・平成初期のクラオタを熱狂させた音楽評論家・宇野功芳もそろそろ研究の対象になってもよいのではないだろうか?
すでになっているのだろうか? 吉田秀和と違い、アカデミックな対象にはなりにくそうだが……。
ブロムシュテットを全肯定したくなる心境を否定するつもりはないが、それは「推しへの愛」に似ていて、昔の朝比奈と同じである。
朝比奈を話題にする人はすっかり減ってしまった。ブロムシュテットも似た道を辿っているのかもしれない。
そう考えれば、現人神みたいに崇め奉られずに、晩年まで毀誉褒貶が渦巻いている方が芸術家の名声(特に死後)にとってはいいのかもしれない。
そして、しつこいようだが私が常々思っているのは
「朝比奈のブルックナーは世界レベル!」と語っていたオタクはいま何をしてるのか?
である😅
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