待てないのか待たないのか、それが問題だ
いとすさまじきもの。それがフライングブラボー。
最近Xの感想でフライングブラボーの苦情が増えた。昔に比べて増えているのか?
「なぜあと少し待てないのか?」と書いている人がいる。だが、これは誤った認識である。
待てないのではない。待たないのだ。
ブラボー屋は静まり返ったホールに己のダミ声を響かせるのが快感なのだ。
「曲の終わりがわかっているアピール」という指摘もよく見かけるが、初心者向けコンサートならともかく、曲の終わりなんて大半の客はわかっている。
ではなぜ真っ先にブラボーを叫んでしまうのか?
この現象を私は「感動性早漏」と命名した。
この患者は感情表現が我慢できないのだ。
また、「美しいものをマーキングしたい」という欲求も持ち合わせている。
その場を支配したい欲求の現れがフライングブラボーなのだ。
そもそも「真っ先に」という発想自体が自己顕示欲でしかなく、はしたない。みっともない。
この手の輩には「余韻も音楽」と申し上げたい。
余韻は釜飯のおこげ。そこを味わずしてどうする。
名演の余韻はコンサートならではの醍醐味だ。CDでは決して味わえない(チェリビダッケのCDは例外)。
生音楽はデリケートなものである。フライングブラボーにはうるさいあなたも、チューニング中に隣の連れとお喋りしてはいないだろうか。
楽章間の異常なくらいの咳も日本特有の悪習ではないかと思う。
すべては生音楽に対する敬意のなさから来ている。名演はよい聴き手がいてこそ生まれる。
近年は「息を呑むようなピアニシモ」が聴けなくなった。
演奏家のレベルの低下ではない。プログラムをめくる音、飴のセロファン音、物を落とす音が絶えないからである。
コンサートがいつのまにか花火大会やテーマパークに似たイベントになってしまった。
お金を払って、音楽を聴く。
その意味をいま一度考えてはどうだろうか。