我々は何を期待してコンサートホールに行くのか
チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルのバーバー「弦楽のためのアダージョ」を聴いた。
崇高な祈りが練り上げられたような響き。
透徹、と言ってもいい。
自分の音楽はコンサートホールでしか体験できない
と言って頑なに録音を拒んだ巨匠のCDが、没後に続々とリリースされているのは皮肉でしかないが、
サブスク音源を2000円のワイヤレスイヤホンで聴いていても、チェリビダッケの凄さは伝わってくるのだから、本当に偉大な音楽家だったのだと思う。
響きの細やかさが尋常ではない。
読響と初共演したさい、リハーサルでチューニングに1時間かけたという逸話は、オーケストラの響きへの彼のこだわりを物語っている。
ところで、このチェリビダッケ、ある人物に酷似していると思うのである。
『美味しんぼ』の海原雄山である。
どちらも気難しい美学の持ち主。パワハラと捉えられかねない言動の数々もそっくりだ。
『美味しんぼ』第16話の「もてなしの心」では、因縁の息子・山岡士郎と白飯・味噌汁対決(なんか「料理の鉄人」みたいだ)。
山岡が「最高級の食材」を組み合わせてご飯と味噌汁を作ったのに対し、雄山はかつて自分の元で働いていた本村を料理人に指名する。
本村は米粒一つ一つ、シジミ一つ一つを丁寧に大きさごとに選り分けた。
粒の大きさが揃ったお米は、炊きムラが完全になくなり、山岡のご飯をはるかに上回る美味しさに仕上がった。
このエピソードなんて、チューニングに1時間かけたチェリビダッケの逸話とほぼ同じではないだろうか。
かつてオーケストラは、一人の指揮者が長年君臨することにより、その指揮者の「楽器」と化していた。
セル/クリーヴランド管弦楽団
ショルティ/シカゴ交響楽団
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団
ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
日本の朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団もその一つだったかもしれない。
一人の指揮者が長年君臨することで、その指揮者の志向する響きが醸成されていったのである。
聴衆は、指揮者の芸を鑑賞しにコンサートホールに通っていた。
バーンスタインのコンサートに行く人たちは、バーンスタインだけが見せてくれる光景を楽しみに行っていたに違いない。
指揮者の「個性」が百花繚乱だった時代の話である。
それがいつからか、
作曲家の思い描いた音を再現する
が、指揮者たちの合言葉になってしまった。
その指揮者でなければ聴けない音楽
が減ってしまった。
私がチェリビダッケのバーバーを聴いて思ったのは
これは紛れもなく
「チェリビダッケのバーバー」である、ということ。
最近はそうした「○○のベートーヴェン」といったものが敬遠されるようになり、
私が聴衆に聴かせたいのは
私のベートーヴェン、ではない!
ベートーヴェンそのもの、なのだ!
と、指揮者たちは口にする。
しかし、待ってほしい。
オペラの演出は、いかに現代的で斬新な解釈で見せるかを競っているのではないか。
初演当時の演出の再現にこだわっている演出家がいるだろうか。
絵画にしても、その画家でしか感じ取れない美を目当てに、私たちは美術館に行っているのではないだろうか。
クラシック演奏は、個性の表現から背を向け、博物館のレクチャーへと向かっている。
昨今クラシックの人気が低迷しているのだとすれば、その原因は個性に背を向けてきたここ20年のクラシック業界の在り方にあるのではないだろうか。
個性的でない芸術に意義はあるのだろうか?
かつてチェリビダッケを聴きに通った人たちは、彼が志向する美を目撃したかったのだろう。
彼が自身の「楽器」であるミュンヘン・フィルと追求した理想の響きを、コンサートホールで体感すべく通ったのだろう。
芸術を鑑賞するということは、そういうことでないかと思う。