何かすごいものを見た カーチュン・ウォン/日本フィルのマーラー交響曲第3番(1日目)
サントリーホールで、カーチュン・ウォンの日本フィル首席指揮者就任披露演奏会を聴いた。
マーラー:交響曲第3番 ニ短調
指揮:カーチュン・ウォン
メゾ・ソプラノ:山下牧子
女声合唱:harmonia ensemble
児童合唱:東京少年少女合唱隊
いつもは帰りの電車で大方の文章を書いて帰宅してから推敲して載せるのだが、ホットな気持ちで感想を書きたいのでカラヤン広場で書いて帰ります😅
いやはや、凄いものを見た。私はコンサートの醍醐味は生音を聴くというより、美しいものが生まれ出るパフォーマンスを見れることにあると最近思っている。そういう意味でコンサートは舞台芸術であり、誰かが言っていたが「どんなご馳走も目を瞑って食べたら大して美味しくない」のだ。
さて、第1楽章から感想を述べるが、先日の久石譲のマラ5に比べると8割くらいの音量に聴こえる。
100分の長丁場なので、最初から飛ばしすぎず抑えているのが第1楽章らしさ(長旅のプロローグ感)があっていい。
しかし、全曲聴いたあとに感じたのは、カーチュンのマラ3は力任せに押し切るような箇所は一つとしてなく、強奏の部分にしても細やかな神経が行き届いているのだった。
順番が前後するが、会場はほぼ満席で、聴衆の期待が圧となって伝わってくる。
2つ隣のおっさんの鼻息が残念だったが(自分の出す音にも耳をすませた方がいい)、聴衆の集中はかなりのものだった。
バンダのスネアドラムとポストホルンはLAのロビーで演奏させていた。
私の記憶ではマーラーに限らずバンダは舞台袖で演奏させていることが多かった。ロビーの半開きの扉ごしに聴こえる音量が絶妙で、この辺もカーチュンのセンスを感じた。
カーチュンの指揮姿は最初にマーラーの5番で接したときはまるでジェスチャーゲームのようで、深い音が欲しいときは穴掘りみたいな仕草になる。そうした「泥臭さ」があった。
それから数回聴いたが、どんどん洗練されてうまくなってる印象がある。
この辺は涼しい顔でテレビゲームをしてるような指揮をするマケラとは正反対である。
久石譲のマラ5は指揮者の力不足を感じたが、マケラの「悲劇的」は指揮者に嫌悪すら感じたので、カーチュンのマラ3が今まで聴いたマーラーの最高の部類だとすればマケラは最低の部類と言える。とても同じ作曲家の音楽とは思えない。
100分なので長いっちゃ長いのだが、高山を登るようなもので、登るのは大変だが久石譲のときみたいに飽きることは全くない。
カーチュンは左手の動きも雄弁で、頻繁に舞台上手の低弦群を抑えるような仕草をしていた。
フレーズとフレーズの繋ぎ目をピアニシモで丁寧に強調しており、ティンパニの細かい刻みとか、初めて聴くような表情だった。
こういう耳をそばだてさせるシーンが頻出するのも聴衆の心をぐっと引き寄せるテクニックと言える。
首席の楽器はトロンボーン、オーボエ、ファゴット、トライアングル、ポストホルン(オッタビアーノ・クリストーフォリ)、コンマス(田野倉雅秋)が印象に残った。
特にトロンボーンのうまさは特筆もの! 私は管楽器に疎いのでトロンボーンの音色があまり聴きわけられないことが多かったのだが😅、こんなにトロンボーン・ソロの多い曲とは思わなかった。
ノーミスだったのではないか。朗々と歌い上げる感じで、日本のオケの管楽器もレベルが上がりましたね😅
日本フィルもコバケンが音楽監督をやってたころは熱いけど精度的にはもう一歩な印象だったが、技術レベルが上がりましたね。
偉そうな感じだけど、ここ10年の進化度でいえばN響とかよりはるかに大きいのではないか。
カーチュンに白羽の矢を立てた事務局は本当に先見の明があったと思う。
ノットを捕まえた東響も素晴らしかったが、ノットはすでに国際的なキャリアがあった。カーチュンはまだこれからの人。
しかし、指揮を見てて思うのはこの人は天性の人たらしというか、すぐに人の懐に飛び込んで魅了させてしまうような天賦の才を感じる。
やはり指揮者は楽団員に「この人のためなら一肌脱ぐか」と思わせないといけない。カーチュンが「人身掌握の天才」と以前書いたときの心境はいまも変わっていない。
山下牧子の歌唱は落ち着いた深い渋みがあって、飲んだことはないが年代物のワインのよう😅
「ピアニストの全盛期は50代」と聞いたことがある(精神的にも肉体的にもという意味)。山下さんは今まさに歌手人生のピークというか、今まさに聴くべき声なのではないかと思える充実した歌いぶりだった。
児童合唱の精度も高い。私は子供が大人たちの舞台芸術に絡むのが弱く、宮本亞門の「魔笛」の3人の童子役にも泣かされたが、今日の子供たちも立派に仕事を果たしたのだからギャラはお母さんが管理しないで彼らの好きにさせてあげてほしいなぁ😅
だって、大人たちが命や生活や人生を賭けて作り上げてる芸術に子供の立場で参加してるんですよ。凄いことです。
女声合唱団もレベル高かったですね。
第4楽章〜第6楽章はアタッカで演奏されるので、緊張感が途切れることなく進むが、第6楽章のラングサームをカーチュンは極めてデリケートに奏で始めさせた。
それはまるでこの音楽が初めてこの世界に生まれ出たようであり、生まれたての赤子を抱くような慎重な指揮だった。
私は第1楽章の途中で「マーラーはなんて壮大な音楽を書いたんだ!」と早くも涙ぐみ、第6楽章では2回も号泣してしまった。
後ろの席からは鼻をすする音が聞こえた。通常なら「非常識!」と思うところだが、感動的な映画を見てすすり泣きが聞こえるのと同じと思ったので、むしろ「わかるわかる」と共感してしまった。
この細やかさを例えるならいったい何だろう?と考えた。
マーラーの3番を聴いていて、その壮大さは文学でいうならガルシア=マルケスの『百年の孤独』、映画でいうなら「ゴッドファーザー」3部作だと思った。
であるなら、文学好きな目の見えない女性と交際していて、彼女の一番好きな『百年の孤独』の点字の本を一から作るくらいの細やかさと言えばよいだろうか?😅
フラッシュモブとか花火を上げてもらうとか本人は全然苦労しないサプライズで彼女を喜ばすバラエティを何度か見たことがある。
本当に人の心を打つのは手作り感ではないだろうか。手間隙かけて何かを作り上げる感じ。その思いが人を感動させるのだ。
カーチュンの第6楽章を聴きながら、この舞台上に見えるものは何だろう?と思った。
音楽ではないことは確かだ。
美、だろうか?
心?
魂?
何とも表現しがたいものが目の前に現れていて、私はただただその神々しいまでの輝きに涙が止まらないのだった。
終盤では5つのシンバルが高らかに打ち鳴らされ、それはまるで大いなる凱歌のような荘厳さがあった。
最後のフレーズももったいぶって引っ張ることなく、絶妙な長さでふわーーーっと音の波紋が会場に広がるように閉じたカーチュンだったが、指揮棒を振り下ろす前に拍手があった。
人によってはフライングに感じたかもしれないが、私には絶妙なタイミングに感じたので、いったん拍手は収まったものの、嫌な気持ちはまったくしなかった。
舞台芸術の凄さを思い知らされた。私は何か素晴らしいものを聴いたのではなく、何か素晴らしいものを見た。
やはり私はブルックナーより断然マーラー派だ😅
こんなに感情の起伏が激しい音楽はあるまい。
生きることの苦悩も喜びもここには全てがある。
大変なのは明日もチケットを買っているということだ😅
明日は完売なので、ライブ配信をご覧になることを強く推奨する。
私が名づけえなかった何かの正体をぜひ見届けてください。
2日目の感想はこちらです↓😅