「読んでいない本について堂々と語る方法」という本を読んだ上で堂々と語る

※旧ブログ記事の再掲

 「読んでいない本について堂々と語る方法」という本を読んだ。

 以下に感想をまとめておく。


概要

 著者は文学教授の身ながら、厚顔にも「読んでいない本について堂々と語る」という行為を積極的に推奨している。その罪深き行為のメソッドについて語っているのが本書だ。
 そのお遊び感あるタイトルとは裏腹に中身は高度で、読書とはなにか、感想とはなにか、教養とはなにか、という問いを深めてくれる。

読書は役に立つ時と立たない時がある

 著者はまず読書を取り巻く言葉の整理から始める。

 そもそも「本を読んだ状態」とは具体的にどんな状態を指すのだろうか。特定の本についての読書ステータスと呼べるものは実に多岐にわたる。「存在すら知らない状態」「名前は聞いたことある状態」「Wikiであらすじを調べた」「パラパラ読んだ」「一字一句暗記してる」「一字一句暗記してたけど十年経って全部忘れた」など……果たしてこれのどこからが「読んでいない状態」なのだろうか? 遥か昔に読んだ本について、記憶間違いをして語るのはオッケーなのか?
 更に、本について語る場合も、実は読んだかどうかはあまり重要ではないのではないかと自問する。学校の課題となる読書感想文では、本の中身よりもそれを読んだ読者の中の変化を問われている気もするし、友達に本の感想を聞く時も、欲しいのは本の内容についての意見ではなく単純な賛同や反論だったりする。オタク同士で本を語る時ならば、お互いの尊いポイントを発掘するのが主目的となろう。
 定義一つとっても、書物と人間を取り巻く環境は意外とあやふやだ。
 本書では、
 ①本を読む
 ②読んだ本を理解する
 ③読んだ本について語る
 というそれぞれの行為が、実は人によって全く中身を変えるということを教えてくれる。
 読書という行為を神聖視している人間にありがちなのが、「読書体験というのは普遍的なものであり、蓄積された体験は必ず教養となる」という錯覚だ。
 実際には、書物と読者の関係性というのは曖昧であり、ある読書をしたからと言って著者の知性が丸々手に入れられるわけではないし、逆に目の前にある本を読まなくても、話に聞いたり本に関する背景を調べるだけで教養を手に入れ得る。要は読書とは、書き手と読みての生い立ちや、これまで積み重ねていた知識との相互作用なわけだから、「場合による」としか言いようがない。
 これでもまだ、本を語るにあたってその本を必ず読まなければならないと言えるだろうか?


感想を聞いて眉をひそめる作者もいる

 どんな人間でも、まるまる本一冊を記憶して語ることはないし、その本について感銘を受けた部分だけがクローズアップされて印象に残る。「感銘を受けた部分」は人それぞれで、作者にとっては「え、そこ?」というような点に衝撃を受けることはざらにあり、このような認識の差は個人の生い立ちや性格に依存する部分が大きい。本とは自分を映し出す鏡面であり、作者自身が本で表現したかったことと読者が読み取ることは必ずズレる。下手したら180度向きを変えていることだってある。
 本について語るという行為は、本を通じて自分自身を語るということであり、また本に書き切れていないその他様々な事象を想像するということでもある。本を語ること自体が、実は本を書くのと同じくらい創造的な行為なのだ。よく、「批評とは創造物を分析するだけの二次的な言語探索行為であり、創造活動よりも一段階下位に属する(あるいは、批評は創造活動ではない)」と見られているが、本書の論旨としてこれは誤りである。
 むしろ、批評のない読書(書いてあることだけに注目する、丸暗記する)こそが、「本に書かれていない内容を想像する」という活動が欠けているという点で読書主体の創造性がない。読んで、自分なりの感想を生み出すというのも一つの真っ当な創造なのである。
 「読んでいない本について語る」というのはこれまでの読書主体の経験や教養から、対象となる本の位置付けを理解し、中身を想像した上で「自分自身を語る」という立派な創造行為だ。

 それは例えば、過去の自分の読書経験を参考に、想像力を駆使して本を書いてみるという行為と果たして本質的に違うものだろうか? 「本から影響を受けることで、これまで世界に存在しなかった文章を生み出す」という過程には少なくとも違いがない。

 逆に言えば「感想」とは、読者にとって最も的確に、読んだ本の内容やアイデンティティを表現した創作物であり、それは作者にとっての書物のアイデンティティとは齟齬が生じる。文章は作者の手を離れた途端、自分のものでは無くなるのである。
 これは作者にとって不気味であり、場合によってはストレスとなり得る。
 想像してみて欲しい。本を書くという行為は本来何かしら伝えたい物事があるからなのに、その伝達の精度が100%に到達していないという残酷な現実を、他ならぬ自分の本に好意を寄せている読者から突きつけられることになるのだ。これはコミュニケーションをする上でかなりのストレスとなるのではないか。
 ファンから細に入った感想を授けられるほど、自分の物書きとしての本懐が、実は達成から著しく遠いところにあるということを思い知らされる。それに憤慨する人がいることは何らおかしいことではない。
 時折話題になる「感想を素直に受け止められない人」というのは自己肯定感が低いわけでも自作を愛していないわけでもない。彼らは物書きとしての矜持が強すぎる故に、いくら言葉を尽くしても作者と読者の間で認識の齟齬が生じてしまうという事実、両者は永遠にわかり合えないという事実を目の当たりにして絶望している人間なのである。書けば書くほど、人気が出れば出るほど、自分の伝えたい物が歪められて届いていることを思い知ることとなるのはきっと苦痛を伴う。

読書離れは必然

 この本の内容を全面的に肯定した上で昨今の読書事情を俯瞰してみると、「読書習慣の衰退は起こるべくして起こったんじゃないかなー」と少し思う。
 長く重厚な小説にはそれに相応の知見が含まれていると僕達は信じていたが、本書を読んだ後だとそれが疑わしく感じられる。
 僕達には想像力があるため、少ない文字数でも非常に多くのことを連想し、言外のことに勝手に感動できる。バズツイートのいいねの数は十年前と比較して指数関数的に増えており、短くて手軽で描写が少ない方が好きという読み手は増え、文章が面白いかどうかの判断はより属人的になされるようになっている。昨今のエンターテインメントの中には、あえて多くを語らず受け手に想像させることで文脈に深みを持たせようとするものも数多くある。アイドルとか。

 今後読書をする人間はもっと少なくなるだろう。それは、社会全体を取り巻く環境が、じっくりと時間をかけた読書に不利な方向へ変化しているからだ。娯楽は多様性を爆発的に増し、集中力を維持する環境は整え辛くなっていて、洪水しつつある情報の波の中で、自分の居場所を確認するだけでも一苦労だ。
 「そんなこと何年も前から言われていた」という指摘はもっともだけど、僕は読書率の低下と娯楽の多様化に若干の飛躍を感じていた。何故ならば娯楽が多様化しても読書体験というのは唯一無二だと思っていたから。そうではなくて、好まれる文字の種類(特に文章の密度)が変わったんだね。そしてそれは環境が決めた以上誰を責めることもできないんだね、ということ。
 知恵も知識も人生には必要だけれども、文学というものは、作品を通じて自分を見つめ直すという娯楽の一種であって、読書率の低下は必ずしも生活を貧しくしないのではないか。
 それどころか、今の時代において、短く散発的であるが多様な文章を取り入れて俯瞰することができる人々の読書形態は、包括的な知を手に入れようとしているという意味で、むしろ以前より教養的とさえ言えるかも知れない。

それでも読書は面白い

 それでも読書は面白い。
 一冊の本を読み切った後の、自分が生まれ変わったみたいな清々しい気分というのは他ではちょっと味わえない。読書家にとって情報化社会は向かい風かも知れないけれど、伝えたい物の形、受け取った時の感動が最大化される物の形――僕はそれをよく「魂の器」と表現するのだけれど――が本の形をしている以上、もう少し読書文化には長らえて欲しいし、もう少し暇な時間で本を読んだり文章を書きたいと思う。

 この本の感想はこれくらいです。
 この記事を読んで本書を読んだ気分になってくれたら嬉しいが、多分この記事だけでは不十分だ。本書を読もう。

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