ベルクソン『創造的進化』を語る〔進化の意義〕
Googleで〔葉っぱが揺れる現象〕と検索すると、さまざまな風説が流布している。風が云々、気圧が云々、妖精が居る、蜘蛛の糸…現代科学では解明できぬ怪奇現象のようだ。
志賀直哉が書いた10ページ弱の短篇『城の崎にて』は、生と死をテーマにした作品だ。
あらすじ(Wikipedia参照)
山手線の電車にはねられ怪我をした「自分」は、後養生に城崎温泉を訪れる。「自分」は一匹の蜂の死骸に、寂しいが静かな死への親しみを感じ、首に串が刺さった鼠が石を投げられて必死に逃げ惑っている姿を見て死の直前の動騒が恐ろしくなる。そんなある日、何気なく見た小川の石の上にイモリがいた。驚かそうと投げた石がそのイモリに当って死んでしまう。哀れみを感じるのと同時に生き物の淋しさを感じている「自分」。これらの動物達の死と生きている自分について考え、生きていることと死んでしまっていること、それは両極ではなかったという感慨を持つ。そして命拾いした「自分」を省みる。
小説の中でイモリのエピソードに入る前に、このような描写がある。
大きな桑の木が路傍にある。彼方の、路へ差し出した桑の枝で、或一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ、同じリズムで動いている。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラヒラヒラと忙しく動くのが見えた。自分は不思議に思った。多少怖い気もした。然し好奇心もあった。自分は下へいってそれを暫く見上げていた。すると風が吹いて来た。そうしたらその動く葉は動かなくなった。原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。
ベルクソンの『創造的進化』を読みながら、わたしはこの描写を所々で思い出していた。
今回はベルクソンを読みながら志賀直哉を、或は志賀直哉を読みながらベルクソンを解読していきたい。
『創造的進化』第三章〔進化の意義〕から恣意的に繋ぎ引用していく。
われわれが語る生の弾み〔エラン・ヴィタル〕とは、要するに、創造への要請に存している。生命全体がその本質においてエネルギーを蓄え、そしてそのエネルギーをしなやかで変形可能な水路に放つ努力として現れ、水路の終わりで、生命は無限に多様な仕事を遂行するだろう。このような結果を、生の弾み〔エラン・ヴィタル〕は、物質を横切りながら一度に獲得したいと思っているだろう。
うーん、よく分からない。しかし、先に進もう。
生命はみずからを集中させ、正確にして、厳密な意味での有機体になる必要さえない。つまり、エネルギーの流れに、弾力的ではあるが一旦できあがった水路を差し出す、決まった物体になる必要さえない。
さらに
曖昧で輪郭のはっきりしない生命性と、われわれが知っている明確な生命性の間には、夢を見ている状態と眼が覚めている状態の間にあるもの以上の差異はほとんどないだろう。生命が飛び立つのは、逆の運動の結果、星雲上の物質が出現するまさにその瞬間であるというのが真実だとすると、これまで述べてきたことこそ、物質の凝縮が完了する前のわれわれの星雲における生命の条件であった、ということはありうる。それゆえ、生命は、全く別の外観をしていて、われわれが知っているものとは全く別の生命の形態を描くことができたかもしれないと考えられる。
これって、ようするにショーペンハウエルの〔意志〕ではないか?
われわれの分析が正確ならば、生命の起源にあるのは意識である。いやむしろ超意識である、と言った方がよい。それは花火で、その燃え尽きた破片が落下して物質になる。その花火そのもののうち、打ち上げられたあとも燃え残って、破片を横切り、それらを照らし出し、有機体と化すのも、また意識である。意識は例えばニューロンにつなぎ留められていて、それらの働きからまるで光のように浮かび上がる、とするような理論は、分析の細部については、学者に受け入れられるかもしれない。それは便宜的な表現方法ではあるが、それ以外のものではない。
根源的状態(ショーペンハウエルにおいて意志、ベルクソンにおいて意識)は、出口を本能と知性の二つの方向に探した。意識は、本能に出口を見てけることはなかった。知性のほうでも、動物から人間への跳躍によって初めて出口に辿り着くことができた。アメーバが人間に進化したのは、意識がそうさせたということか。
ところで、ここで言われる花火そのものというのは、カントの〔物自体〕のことではないか? ベルクソンは〔物自体〕に侵入することを試みているのではないか? どのようにして? 知れたことだ、直感によって。
人間において、意識は何よりもまして知性である。意識はまた直感でもありえたし、そうでなければならなかったように思える。直感と知性は、意識の働きの相反する二つの方向を表している。直感は生命の方向そのものへ進み、知性は逆の方向へ進んでいる。このようにして、知性は全く自然に物質の運動に自分を合わせる。
直感を解くには先ず引用の〔知性〕の意味付けを解かなくてはならない。この本の中でベルクソンは動物の〔知性〕と〔本能〕を対比する。知性と本能は、相反する二つの方向に向けられているというのだ。
例えば、極端な話しだが…
道端で好みの女性を見て、セックスしたいと思う。地球上の生命体で、人間だけがその本能を抑圧する。何故か? 知性があるからだ。
勿論この話はフロイトの精神分析と綜合し考えると尚面白い。が、ここでこれ以上話を広げるのはよそう。
ようするに〔知性〕と〔本能〕は、未発達の段階では互いに浸透していたが、成長するにつれ知性は意識へ向かい、本能は無意識へ向かい、異なる意識の二つの形態として分離した。
動物の中で一番知性的(意識的)な人間は、その分本能(無意識)の形態を進化の過程で失った。
概念は、一つに集められて「知性界」を構成する。それらは事物の知覚そのものではなく、知性がそれによって事物に注意を固定するところの行為の表象である。したがって、それらはもはやイメージではなく象徴である。
知性の役割は、知覚から諸関係を見つけ、不動の物を概念化し、明晰に表象することにある。
知性は科学を介し、実証的に完全な形を人間に引き渡す(それだから人間は宇宙にだって行ける)
科学は本能を、知性の言葉で翻訳するが、しかし生命について、知性が人間にもたらすものは、曖昧な言葉で翻訳されたものだけではないか?
その時、知性は対象の周りをくるくる廻り、対象について外からの視点を増やすだけである。
知性はつねに所与のものを使って再構成しようとする。まさにこの理由で、知性は歴史の各瞬間における新しいものを取り逃す。知性は予見不可能なものを認めない。あらゆる創造を拒否する。決まった前件が、決まった後件を惹き起こす、つまりその関数として計算可能な後件を惹き起こすことが、知性を満足させる。
知性は対象の内へ入ることはできない。知性は生命を理解することができない。
それに対し直観は、人間を生命の内部そのものに導く。
直観とは、自分自身についての意識を持った本能のことではないか?
知性は表象を生むが、本能は生命を直感する。
そこで、われわれが有する最も外部から切り離されると同時に最も知性が浸透していないものに集中してみよう。われわれ自身の最も深い所で、われわれが最も自分自身の生の内側にいると感じる点を探してみよう。そのとき、われわれは、純粋持続に身を浸す。
志賀直哉の書く文章は恐ろしく直感的なのである。
植物において、眠っていた動物の意識と運動性が目覚めることもありえるし、動物は植物的生に方向転換してしまう脅威に絶えずさらされて生きている。植物と動物という二つの傾向は最初きわめて浸透し合っていたので、それらの間に完全な断裂が生じたことは決してなかった。一方が他方にずっとつきまとっており、至る所で、それらが混じり合っているのが見られる。
『城の崎にて』『焚火』『暗夜行路』などには、直感的な自然の不思議がある。
この作家の目は自然を見て、直感的に生命を読み解いていく。
われわれが属している人間性にあって、直感はほぼ完全に知性の犠牲になっている。それでも、直感は存在している。ただし、漠然としていて、何よりも非連続的なものとして。それは、ほとんど消えかかったランプで、所々でしか、ほんのわずかな間しか、再び火がともることはない。ただ、結局のところ、生死に係ることが問われている場合、このランプに再び火がともされる。われわれの人格性について、われわれの自由について、自然全体の中でわれわれが占める場所について、われわれの起源、そしておそらくわれわれの運命について、そのランプが投げかけるのは弱い揺らめく光だ。それでも、知性がわれわれを置き去りにした夜の闇に、この光が差し込んでくることに変わりはない。
現象を物理方程式に入れ計算するのが知性の役割なら、直感とは、現象がまだ概念化されぬうちに把握し、潜在的に〔物自体〕を読みとることではないか?
桑の木の葉現象、ベルクソンに言わせると、有機体を構成する細胞が一瞬意識をもち、自らを開放しようと、弾んでいる、こと、なの、か…
しかしその現象を目にして、勝手に納得し立ち去る志賀直哉って、けっこう、シュールですよね(笑)
というか、ヤバい人だ。
あともう一人、川端康成の書いていることも、超ヤバことに、最近気付いたので又書いてみようと思う。が、わたしは一体何を書いているのか? そもそも概念を使い直感を書こうとすること自体野暮なのだ。自分でも混乱して来たので、今回は、この辺で!