フレーゲのパラドクス「1+1=2」は分析的命題である。
なんとなく、気になっていたことがあった。
19世紀末から20世紀にかけ、イギリスで発展した分析哲学。
あれってカントの分析とか綜合に、関係あるのだろうか?
フレーゲ(1848-1925)というドイツ人が、分析哲学の開祖である。
カントは、算術的命題はアプリオリな綜合的判断だと言った。
フレーゲは、カントの認識論のうち、数学的な問いを自らの課題とし、算術的命題は論理学から導出される分析的命題だと主張した。
フレーゲ曰く「7+5」という算術は、その概念を分析するだけで「12」の概念を得ることが可能である。
『算術の基礎』という論文に、同時代人のフッサールはすぐさま反応し、文通が開始された。
しばらくして、バートランド・ラッセルがフレーゲを発見した。ラッセルは言う、「算術の哲学を、フレーゲ以前のすべての著作家は間違い考えていた」
ホワイトヘッドとの共著『数学の諸原理』その理論はフレーゲに負うているようだ。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の序文には、このような記述がある。
私の思想がフレーゲの偉大な業績と、友人バートランド・ラッセル氏の諸著作から多くの刺激を受けていることは、ひとこと述べておきたい。
私はちょっとしたエッセイ感覚で、これまで『論理哲学論考』をぱらぱらひらいたことはあった。
なるほど、しかし分析哲学なるものを本気でモノにするには、どうやらフレーゲから読みはじめる必要がありそうだ。
カントをモノにした今なら、フレーゲだって読めそうな気がする。
Amazonを覗いてみた。
『算術の基礎』 ¥9738より・・・
近所の図書館に出かけた。
在庫無し。
代わりに入門書のようなものを借りた。
読んだ。
感想を書いてみよう。
フレーゲは、論理学から算術的命題を証明しようとした。
しかしそのためには、アリストテレス流の論理学(三段論法)の全面的革新が必要だと覚り、現代論理学を創始する必要に思い至る。
論理学とは何か? フレーゲ以前の論理体系は、やはりカントだろう。
『純粋理性批判』から抜粋する。
感性により与えられた対象を悟性は思惟するが、この悟性の規則一般に関する学が論理学であり、認識の範囲および客観的妥当性を規定する学は〔先験的〕でなければならない。
カントは先験的論理学を〔一般論理学〕と〔オルガン〕に分ける。
〔一般論理学〕は、悟性および理性による認識形式に関する全体を、その要素に分解し、我々の認識を吟味する論理的判断の原理として呈示する。
それだから、一般論理学は〔先験的分析論〕である。
〔オルガン〕というアリストテレス由来の論理学は、概念の整理を通して心理探究の道具とすることにあるが、カントはそれを〔一般論理学〕から分けることを強調する。
なぜなら、悟性の経験的使用を判定する〔一般論理学〕を〔オルガン〕として普遍的使用を許し、実質的に使用してしまうと、そこから仮像による空疎な思弁が起こるからである。
すると我々に決して与えられ得ない対象について見境いのない判断を下すという危険を防ぐため〔オルガン〕としての論理学は、弁証的な仮像の批判(悟性および理性を超自然的に使用することに関して批判する学)でなければならず、それは〔先験的弁証論〕である。
このように、カントは〔先験的論理学〕を構想し、先ずは論理的判断の基準となる〔一般論理学〕即ち〔先験的分析論〕を純粋理性批判の上巻(岩波文庫版)で展開し、中巻で〔先験的弁証論〕を展開する。
さて、幾何学的命題(例えば、直線は二点間の最短の線であるなど)はその公理の源泉を空間的直観に求めるアプリオリな綜合的命題だとフレーゲも認める。
しかし「1+1=2」のような算術的命題は、本当に〔量〕の概念を直観に見出しているのだろうか?
数を得ることが可能な〔量〕の領域を、我々が自ら創造しているのだとしたら、算術に従う領域を拡張するため〔量〕の定義を定式化しようとすることは、正当なことである。
我々が数について、いかなる表象も直観ももちえないとしたら、一体どのようにして数は我々に与えられるのか?
一つの文という脈絡においてのみ、語は何かを意味する。
それだから、数詞がその中に登場する一つの文の意義を説明することが課題であろう。
一つの確定した数を把握し、かつ同じものと再認する一つの手段を獲得してはじめて、数に固有名としての数詞を付与しうるのであるから、特に注目すべきは、そうした再認手段を与える「再認文」や「再認判断」である。
例えば〈記号a〉が一つの対象を表示すべきならば、bがaと同一であるかどうか? いたる所で決定しうるような一つの明確な規準がなければならない。
フレーゲは、こうした「再認文」や「再認判断」を、次のような数等式に求めた。
例(N)
「概念Fに帰属する基数は、概念Gに帰属する基数と同一である」
「N(F)=N(G)」
我々が基数概念を獲得するには、こうした数等式の意義が確定されねばならない。
数的表現、数詞の意味が問われるべきなのは(N)のような再認文の脈絡においてのみである。
フレーゲは、数の同一性に関する一般的な規準を「対応を介しての数の同一性」と定義する。
もう少し例を引こう、今度は幾何学の再認文である。
例(Rⅰ)
「直線aの方向と直線bの方向は同一である」
「R(a)=R(b)」
例に引いた二つは、基礎中の基礎の例文である。
フレーゲは、ここから同数性、同一性言明などという概念を使い、数や言語まで論理的に抽象化し、基数のような当該の抽象的対象を指定する「論理的抽象理論」という戦略を立てる。
が、その辺りは入門書を読む限りではいまいち理解できない。
あと、ラッセルたちに論理学の革命だと言わしめたフレーゲ論理学についても、いまいち分からない。
だから、カントで適当に誤魔化した(笑)
図書館で『算術の基礎』を入手できたら、読んでみよう。
しかし多分俺には半分も分からんだろうな、ということだけは今回の入門書を読み分ったのだ。