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14時のオフィスに風が強く吹いている
ランチタイムが過ぎ落ち着き始める14時。
この時間は、メンバーの忙しさを確認するのにベストのタイミングだ。忙しい人は、マウスのクリック音が違う。
カチカチカチカチカチ...タタンっ…カチカチ
音は大きいが集中力と緊張感が生むクリック音のリズムは心地よく気にならない。
一方、自分のペースで仕事ができている人の音はまったく違う。
カチカチ……カチ……ジージー
ホイール音にも余裕が感じられる。じっくりと仕事に集中出来る午後は最高だ。
音がしない人もいる。
何かをじっくり考えてる人か、滅多にいないが寝てる人だ。今回はその滅多にいない人の話をしようと思う。
◆
ある日の14時過ぎ。隣の席のカケルくんは、睡魔と戦っていた。エクセルに何かを入力している様子だが、キーボードを打ちながら時々頭がカックンっとしてる。その度に何もなかったかのように再開するのだが、暫くするとまたカックンっとなる。
(そんなに眠いなら仮眠部屋でちょっと寝てくればいいのに...)と思ったが様子を見ていた。
カックンっの頻度はどんどん上がり激しくなった。実は眠いのではなく、目をつむって何かに祈りを捧げているのかも?と思う程だった。僕は仕事の手を止めカケルくんの動きに見入っていた。
突然祈りが止まった。正確に言えば、両手をキーボードに添え、首を垂れている様は祈りの姿そのものだった。
ふと画面を見ると画面の左端がチカチカしている。覗き込むと真っ白なセルの行番号だけが勢い良く動いている。
そう...
カケルくんは右手で ↓ キーを押したまま寝てしまったのだ
行番号は既に2000を超えている。笑いと驚きと様々な感情が入り乱れる。いつしか僕は心の中で応援しだした。
ガンバレ!ガンバレ!!
もう少しで5000行の大台だぞ!!!
前席に座っている先輩の葉菜子さんは、カチカチ...タタンっ..タタンっ…タタンっ…と忙しそうに大きな音を出し続けている。
頼む。今は大きな音を出さないでくれ...
3000行を超え、ここからが正念場なんだ。
カケルくんを起こさないでくれ...
僕の応援が届いたのか行番号は4000を超えた。笑いに堪えながら固唾を飲む僕と祈りを捧げ続けるカケルくん…
◆
ついに4500行を超えた。気分はまるでマラソンレースの応援だ。
ガンバレ! ゴールはもうすぐだ! 苦しいのは皆一緒だ!
沿道の声援が聞こえる。
そして遂にその瞬間が来た。
カケルくんのエクセルは鮮やかに5000行を駆け抜けた。
「やった!」
思わず僕は声を上げた。ビクっとして起きるカケルくん。
居眠りに気づいた彼が謝ってきたので僕は言った。
「よく頑張ったな!」
不思議そうな顔をするカケルくん。
カチカチカチカチ...タタンっ…タタンっ
葉菜子さんのマウスの音は止まらない。
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五年程前の職場のエピソードですが、後輩と先輩の名前は、僕の大好きな小説「風が強く吹いている」の登場人物から引用させていただきました。アニメ化もされた作品なので、ご存知の方も多いかと思います。三浦さんは、 "舟を編む" など多くの名作を書かれていますが、驚くのはそのリアリティ。現場にいるかの様な生々しさで物語が描かれていきます。
僕が初めて三浦さんの作品を読んだのは、この "風が強く吹いている" です。読みながら「この人は駅伝経験者なんだな」と思い込んでいました。実際は出版社が決まってない段階から取材を開始。数年をかけて、資料を調べたり大会を見物したりして、ストーリーを練られたそうです。
特にレースのシーンでは、まるで箱根の山を駆けているかの様な疾走感で物語は進みます。本当に手に汗かきますよ。
ランニングをする人は読むと走りたくなる。ランニングをしない人にとっても最高のエンターテイメントとして楽しめる作品です。
お勧めです!