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日本は言語でできている。水村美苗 著「日本語が亡びるとき」が予見する近未来

突然だが私は古本屋巡りが大好きだ。もちろん普通の書店も好きなのだが、どうしても比較的新しい書籍に重きを置かれるため「古いけれども、今なお重要な本」に出会い辛いのだ。私にとって古本屋はそのような書店の弱点を補うのに格好の場所であるのだが、またまた運命的な出会いをした名著を発見した。

その本が今回紹介するこちらの本

水村美苗 著「日本語が亡びるとき」

だ。


本書が上梓されたのは2008年。今から約13年ほど前になる。当時生まれた子が中学生になる年月であるが、その内容はいささかも古びていない。それどころか当時「大袈裟すぎる」と揶揄された内容は、今まさに日本が直面する現実性を帯びてきているとさえ言えるだろう。

タイトルだけを見ると「言語」に関心を持つ人をターゲットにした本のようだが、さにあらず。「日本語」をきっかけに日本の文化や社会、そして国家のあり方についてまで幅広く考察されている。言語の問題に限らず「何か最近の日本って大丈夫なのかな。これからどうなっていくのかな。」そんな不安を感じるすべての人にお勧めしたい名著だ。

著者紹介: 一風変わった小説家

著者の水村美苗 (みずむら みなえ) は小説家だが、その経歴は少し変わっている。

出身は東京だが、12歳の時に父親の仕事の都合で渡米。大学までアメリカで教育を受け、イェール大学仏文学専攻。同大学院博士課程修了。プリンストン、ミシガン、スタンフォード大学で日本近代文学を教える。

アメリカ在住歴が長いもののアメリカの文化にはなかなか馴染めなかったようで、そこから逃げるように日本近代文学、とくに夏目漱石の作品を読み漁っていたと本人は語っている。今で言うなら、親の都合でアメリカに連れて行かれた挙句、現実社会に馴染めず引きこもり、アニメやゲームのような二次元の世界にどっぷり浸かりこんだ”オタク女子”といったところか。日本に帰国後に小説家としてデビュー。作品数は少ないものの数々の文学賞を受賞しており、”量より質”を地で行く作家だと言えるだろう。

しかし、今作「日本語が亡びるとき」は小説ではない。自身の小説家としてのキャリアや、文学研究に携わるの仕事の中で感じた、日本語の未来ひいては日本という国そのものの先行きへの不安を世に問うた作品だ。

「日本語が亡びる」の意味

そもそもこのタイトル「日本語が亡びるとき」を字義通りに受け止めると、多くの人が「日本語を話す人がいなくなる」という意味だと思うだろう。実際、本書が発売された当時も

「日本語を話す人が1億2千万人もいるのだから、それが一人もいなくなるなんてありえない」

「水村の話は飛躍しすぎだ」

といった反応も多かったようだ。

だが、このような批判は完全に的はずれである。なぜなら、著者が本書でいう”日本語が亡びる”というのは、そのような意味とは全く違うからだ。

著者のこの本で言う「日本語が亡びる」という言葉が意味するのは、「日本語が日本という国の中で日常会話としてしか使われない”現地語”と化すこと」である。

すなわち「勉学や研究、政治経済に関わる分析、果ては国の政策を論じる場など、深い思考や議論が日本語で行われなくなり、英語 (もしくは他の外国語) に取って代わられる状況」を指して”日本語が亡びる”と言っているのである。

3つの種類の言語

では一体どうやったらそのような状況に陥ってしまうのだろうか。

それを考える上で重要になるのが次の3つの概念だ。

○ 普遍語

「世界標準言語」という言い方をした方が分かりやすいかもしれないが、要するに世界の様々な地域や分野 (学問、政治、経済など) で使用される”グローバルな”言語のことであり、現在の”英語”がまさにその地位にある。

○ 国語

特定の国で流通する言語、なかでも近代国家や社会を運営する際に使用される言語のこと。

○ 現地語

知的で複雑な思考や議論をすることができず、いわゆる”日常的な”事柄のみを取り扱う言語のこと。

以上3つである。

「国語」と「現地語」の違いは日本ではわかりにくいかもしれない。その理由は他でもない、日本が自分達が普段使う言語と政治や学問の世界で使われる言語が同じであるのが”当たり前”という幸運な社会であるからだ。

一見当たり前のように思われるかもしれないが、世界を見回すとこれは決して”当たり前”ではない。フィリピンやシンガポールなどでは日常で話す言葉は現地語であるが、政治や学問の世界では英語が公用語になっており、英語の素養がない人達には政治の世界で何が語られているのかを理解することができない。「国語=現地語」という構造は”当たり前”ではないのである。

著者がこの本で訴える不安あるいは未来への危惧とは、この「日本語が国語であり現地語でもある」という恵まれた状況が失われること。端的に言えば「日本語が現地語化し、英語(普遍語)が国語化する」ことになるのではないかというものである。

どのようにして”日本語が亡びる”のか?

先程も述べたように、私達日本人は「日本語が日常会話を行う現地語であると共に、高度な思考や議論も行う国語である」という非常に恵まれた環境で育っている。そんな幸福なわれわれ日本人にはそもそも「日本語で高度な思考が行われなくなる」などという事態が想像すらできない。一体全体どうやったらそのような状況が生じるのだろうか。

そのきっかけとなる一つが英語教育への偏重だ。

英語教育といえば、小学校や中学校での英語授業をすべて英語で行うことや、より低学年からの英語教育の実施などが思い浮かぶ。”言語はツールではなく、言語こそが思考を規定する”という意味では、英語の早期教育も問題があるのだが、この本の文脈に沿えば大学などの高等教育の英語化の影響が大きい。

昨今では大学などの高等教育においてはすべての講義を英語で行うべきといった極端な論も目にするようになっている。その理由は日本の大学の国際的評価や学術研究力の低下が叫ばれる中

「授業の英語化によって海外からの留学生を呼び込む」

「日本の教育において世界の最先端の研究をスピーディに取り込むことができるようにする」

ことで、その状況を改善しようというものだ。だが、事はそれほど単純ではない。

高等教育の英語化という序曲

仮に大学や大学院といった高等授業を英語で行うようにしたとしよう。

当たり前だが、それは授業で使用するテキストや参考文献の英語化も推し進める。英語で書かれた最先端研究を日本語に翻訳するという手間を省くことで、よりスピーディに、より効率的に世界の研究を取り込むことができるようになるからだ。

それは英語で書かれた専門書の急増と日本語に翻訳した専門書は激減を引き起こすとともに、当然、専門書に関する学術的な議論も英語に基づいて行われる動きを加速させる。

学術的な議論が英語で行われ、それがそのまま海外で通用するようになれば、日本人の研究者も日本語で執筆し、出版する理由が失われ、研究論文なども英文で行われるようになる (これはすでにそうなっている部分がある)。これは日本語が学問などの専門の世界では通用しない言葉に落ちぶれることを意味する。

専門用語の英語化が与える一般社会への影響

もちろんその影響は学術分野にとどまらない。

学術分野の最先端の概念や言葉は、通常数年立って私達一般国民の間にも流通するようになる。しかし、そもそも専門家が日本語に翻訳しないようになれば、日本語は専門的語彙を持たない言語となり、非専門家である一般国民も専門的な概念を英語で理解しなければならなくなる。

たとえば昨今話題となっている「量子コンピュータ」という新しい技術がある。これは量子が持つ”量子のもつれ”や”重ね合わせ”という特性を利用して、従来のコンピューターでは行えなかった演算を行うことができるようになる技術だ。

夢の新技術としてもてはやされる「量子コンピューター」だが、そもそも日本語に「量子」という単語が存在しなかったらどうなるだろう。当然我々は「量子コンピュータ」という概念・技術を英語で表記された”Quantum Computing”という言葉で解釈をしなければならなくなる。たとえばこんな風だ。

「Quantum Computingとは、quntumが持つquantum entanglementやsuperpositionという特性を活用した技術である」

こう説明されて、果たしてどれだけの日本人がQuantum Computingとやらを理解できるだろうか。「quantum entanglement」とは”量子のもつれ”のことだが、細かい理屈は分からずとも「量子とやらが複雑にからみあって存在している」ことは想像ができる。また「superposition」とは量子の”重ね合わせ”のことだが、これも言葉から何となく「存在が重なりあっているようなことか?」くらいは想像ができる。日本語であればこそ初めて聞く言葉でも何となく意味を想像することができるのだ。

日本語知的劣化の無限ループ

量子コンピュータ自体は、ある意味特殊な概念であり、その影響は限定的なものに留まる。しかし、同じような現象が、政治、経済、あるいは人の生き方などの哲学的分野に及んだ場合はどうなるだろうか。英語という普遍語によって最先端の知識にアクセスできない多くの日本人には、そのような知的考察自体が行えなくなる可能性がある。そして、知的考察を行えない多数の日本人のために、わざわざそれを啓蒙しようなどと考える研究者もほとんど現れないだろう。なぜなら”その時間があったら、英語で自分の研究をした方が得”だからだ。

こうして日本語の知的水準の低下という無限ループが始まるのである。なるほどそのような事態が、突然明日訪れることはあるまい。現在すでに社会人の年齢であれば、彼らが現役世代の間は大丈夫かもしれない。だが、その孫子の時代になればどうだろうか。

現状の英語教育への歪なほどの偏りを見るにつけ、その時は少しずつ近づいているという危惧を覚えるのは著者だけではないだろう。

日本語の亡びが何を引き起こすのか

では、このようにして著者の言う”日本語が亡びる”事態になった場合、何が問題になるのだろうか?

人によっては「日本語が亡びようと日本人が亡びるわけではない。使っている言語が変わるだけの話だろう。」と思う人もいるかもしれない。だったら「日本語が亡びて何が問題なのか?」と。

これについては大きく2つの問題がある。

一つは日本語の亡びは日本文化の亡びるをも意味するということ。

もう一つは民主主義が崩壊してしまうということだ。

まず一つ目の問題である「日本文化の亡び」とは何か。

日本の近代文学、特に夏目漱石に一方ならぬ思いを寄せる著者によると、夏目漱石の作品は海外では評価が必ずしも高くないのだろうだ。むしろ、海外ではほとんど評価されていないと言った方が良い。だが、興味深いことに”日本語を深く学習した外国人”には非常に評価が高いらしい。その理由は漱石の言葉巧みな表現は日本語の持つ響きや意味、その言葉によって共有される情景を理解してはじめて心を揺るがされるものだからである。したがって、漱石の文章を外国語にそのまま翻訳しても何の面白さもない味気ない文章にしかならないのである。

日本ではよく「言語はコミュニケーションツールだ」と言われるが、言葉とは単なるツールではない。言語こそが世界を作っているのであって、その逆ではないのだ。

かつて、とある本の中で「”壁”とは『壁』という言葉によって初めてそれと認識される。もし『壁』という言葉がなければ、私達はその存在にすら気づくことができないのだ。」と語っている人物がいたが、正にその通りだ。言語があるからこそ、それに寄り添う形で私たちの知性や感性、世界観が少しずつ築かれてきた。

日本文化も我々が言葉というツールを使って人工的に作ったのではない。日本語という言語が築き上げた世界観が、我々をして日本文化を築かせたのである。

であればこそ、日本語によってこの世界を深く考えることができなくなった時、日本独自の、日本人だからこそ感取できる世界は永遠に失われてしまうだろう。

日本語の現地語化が民主主義を破壊する

日本語が「国語」としての地位を失い「現地語化」することによる、もう一つの問題は、それが民主主義の崩壊を促すことである。

もし日本語が現地語化し、政治や経済、社会に関する思考や議論が普遍語 (英語) で行われるようになると、「社会に参画する普遍語を理解する人々」と「社会に参画できない現地語のみ理解する人々」というように社会が分断されてしまうことになる。

これはすなわち民主主義が崩壊をも意味する。

この場合の民主主義とは単なる制度のことではない。国語による国民的な議論が行われなくなることで、日本国民、とくに非エリート層である多くの国民の意思が社会政策に反映されなくなり、それは国民の連帯意識の減退と相互扶助意識の喪失を招く。

例えば19世紀に活躍したイギリスの社会思想家J.S.ミルは著書『代議制統治論』の中で、次のように述べ、「同胞感情のない国民のあいだにあっては、ことにかれらが異なった言語を読み書きしているばあいには、代議制統治の運用に必要な、統一された世論が存在しえない」と述べているが(J.S.ミル『代議制統治論』P376)、国民が用いる言語が異なれば連帯意識を持つことは非常に難しくなり、民主主義国家の運営は事実上不可能となるだろう。

まとめ

本書を読んでつくづく感じるのは、言語というものが持つ力の強さ。そして、それがあまりにも強く、当たり前であるがゆえに私達は普段まったくその恩恵を感じていないのだという事実だ。

この本では「日本語が亡びる」というセンセーショナルなタイトルを使われたことで、発表当時いわゆる”バズった”本である。しかし、著者は「日本語が亡びる」ことそれ自体を憂いて書かれたものではない。その意味ではいわゆる専門的な"日本語論"ではない。

だが、「日本語が国語としての地位を失う」結果として、日本という国であり地域、そして独自の文化をもったこの社会そのものが失われることを憂いた本であり、その危惧するところは近年ますます現実味を増してきていると言える。だからこそ本書は”今こそ読むべき本”なのである。

という訳で今回ご紹介したのはこちら

水村美苗 著「日本語が亡びるとき」

でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m


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