余談⑪:風呂桶に見た日本人の心
自意識過剰な僕の言い訳として、決して流行りに乗じてるわけではないのは理解いただきたいのだが、身体と心に溜まるデトックスを抜きたいと思ったら、サウナや岩盤浴に足を運ぶ。
手軽に行けるのはサウナなので、割合的にはサウナにいく機会が多い。
高温のドライサウナに入り、鼻の粘膜が焼けそうになりながらも大きく一息つくと、血管が広がっていくような気がする。毛穴からぷつぷつと水滴のような汗が滲むのが気持ち良い。
サウナに入る時間は1回7分と決めいている。短いくらいだが、自分の身体にちょうど合う時間を探した結果だ。そして、心地よい負担を感じたまま、広がった血管を水風呂で一気に締めると、ドロドロで流れの遅い血液が一気に身体を巡るのか、バチバチと脳がフラッシュするような感覚になるのだ。
「覚める」とでも言えばいいのか、サウナの後の水風呂はそれほどまでに刺激的で中毒性がある。
サウナと水風呂を3セット行うのが僕のルーティンで、ギュムギュムと血管を広げては縮めて広げては縮めてを繰り返していると、柔軟な血管を作り動脈硬化を防いでいるのだ、という気持ちになる。
もちろん、間には休憩を挟む。
世にいう「整い」の時間だ。
縮んだ血管がふんわり広がり、得も言えない心地よさは、まさに忘我の時間に相応しい、贅沢である。
さて、身体を休めて席を立つときに、座っていた場所を流すのは、むしろマナーだと思っている僕だが、ある時、ふと気がついたことがあった。
自分の座っていた場所に水を掛けようとした時のこと、水風呂の縁においてあった桶に、すでに水が入っていた。常にというわけではないが、たびたび桶に水が入ったまま縁に置いてある。
初めは、理由がわからず、誰が入れたのかもわからない水が不思議だったが、自分が空の桶を縁に置いたことで、謎が解けた。
僕が水風呂から上がり次の人が入った時、溢れた水が桶を押し、乾いた音を立てて転がった。まさに水を刺されたように、忌々しそうなため息を吐き桶を拾う。
この時、桶に水が入っていたらどうだっただろうか。
水の重みで重心が安定し、多少のことでは縁から落ちない。そうすれば、至福の時間を邪魔されずに済んだはずだ。
つまり、桶の水の正体は、次の人の煩わしさを回避するさりげない優しさだったのだ。
他者との繋がりの中で、相手を思う優しさは、決して押し付けや自己満足ではない、日本人らしい奥ゆかしさだと思う。
早速僕も、自分が使った後の桶に水を入れるようにする。
次にサウナから出た人が、気持ちよく自分を整えられるように。
暑い盛りですが、お体に気をつけてください。