【校閲ダヨリ】 vol. 43 谷崎潤一郎『文章讀本』を読みながら(夏休みスペシャル)
みなさまおつかれさまです。
最近、我を忘れたように本を読み漁っています。いや、仕事の話ではありません。プライベートにおいて、さらに本を読んでいます。(仕事で8時間以上読み通しの日はお休みします)
世の中の最新情報が紙媒体で出されていたのは遥か昔、のように感じられますね。実際、特定の分野ではその通りなのかもしれません。
言葉の世界はと言いますと、「電子書籍」という形を変えた本の登場はあるにせよ、「本」というフィールドで今もなお時代が進行し続いているように思えてなりません。
こんな仕事をしておきながら申し上げるのは恥ずかしい限りなのですが、私は文学とはかけ離れた学生生活を送ってきました。学術論文やエッセイはそこはかとなく読んだ記憶があるのですが、文学は本当に数えるほどです。
もし、外国の方に「君は日本で本に関わる仕事をしているんだよな。日本の文学は本当に素晴らしい文化だ。ひとつ、よくわからないんだけど、小林多喜二の『蟹工船』の船にはなぜ航海法が適用されないんだ?」なんて言われても、顔を赤らめはせど言葉が出てきはしない状態になること請け合いです。
日本文学に親しみのある外国の方は大いにいらっしゃるというので、今さら焦って読み始めたところもありますが、「美しい文章に触れたい」という知的好奇心が立ち昇ってきたというのが本当のところです。
なので、実用書や学術書といった今までたくさん読んできたジャンルではなく、文学を読みふけっています。
……と言いながら、言葉そのものについて書かれた本をまた手に取ってしまいました。
谷崎潤一郎の『文章讀本』(中央公論社)です。
この本には、谷崎が考える「文章を書く心得」が綴られています。
谷崎は、『痴人の愛』『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』『細雪(ささめゆき)』などで有名な小説家です。最高傑作は『細雪』(タイトルからすでに洒脱ですよね)と評されることが多いですが、私の好きな作品は『痴人の愛』。文学の自由さを感じるとともに、「こうも儚い、か細い表現を同じ日本語でできるなんて」と感嘆したことを覚えています。
さて、『文章讀本』ですが、「あくまで谷崎の考える」という枕詞が付されながらも、私が日頃言葉や文章にかんして考えている本質と似ている箇所があるので、それをご紹介してみようと思います。
今回は、「『文章』と『音』は切っても切れない関係にある」というテーマです。
私は常々、「良い文章は、音楽と似ている」と考えています。
すっと胸に入ってくる柔らかい文章はクラシック、リズムの良い文章はブルース、癖があるけれど忘れられない文章はジャズを連想してしまうのです。
谷崎は文章という大きなカテゴリーを「文章体(文語体)」と「口語体」とに分け、「口語体の文章が最も今日の時勢に適している」と述べています。
これが書かれたのは1975年のことですが、現在でもまさにそうですね。文章体の文章を見ることはほとんどないといった感じがします。
ちなみに、ここでいう文章体というのは『土佐日記』や『源氏物語』といった和文調、『保元物語』や『平治物語』といった漢文調(和漢混交文)のふたつに大別されますが、平たくいえば古典文のことを指します。
古典文学は高校時代から触れていない。もはや、なんのために習ったかすらわからない。
確かに、「青春時代の良き思い出」で終わってしまう学問のような感じもしますが、谷崎は文章体の良さも学ぶべきだと述べています。
なぜ、このようなことを言うのでしょうか。これは私も普段仕事をしていてよく感じるのですが
と谷崎は考えるようです。このような欠点を補うものとして、文章体に注目せよということなのです。
古典文は、現在と比べると単語の種類が非常に少ないという特徴があります。
思い出してみてください。『枕草子』に出てくる「あはれ」の数を。
現在であれば重言(重複表現)のオンパレードです。でも、当時はそれが限界だったのですから、そう書くしかありません。その代わりに、ひとつの単語に複数の意味があり、現在よりも読者があれこれ想像を巡らせる余地がありました(そのおかげで高校生はとても苦しむのですが)。
谷崎はこれを踏まえて「言葉や文字で表現出来ることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止(とど)まることが第一」と、ある種の境界を設けることをよしとするような書き方をしています。
このあたりから、私は音楽との類似性を思い浮かべました。
目の前に楽器があったとします。どの音でも出せる。出せるのですが、ただ闇雲にかき鳴らしても音楽にはなりません。スケールやコードといった基本のルールを覚え、その「進行」を意識することで例えば「G#→G7→Cm→E」というメロディになります。これは東京事変の「丸の内サディスティック」の簡単なコード進行ですが、「もっとジャズっぽくしたい」と思えば「G#M7→G7♭13→Cm9→A#m7・D#9」のようにジャズ特有の「音」を付け加えたり、置き換えたりすればいいのです。(太字が音を加えたところです)
文章では、文法といった原則(私的には「ガイドライン」といったほうがしっくりきます)に基づき、単語を選んで構築していく。ニュアンスを付け加えたい場合は、リスペクトする作家の言い回しなどから着想を得て推敲を重ねる。ストックが多いに越したことはなさそうですね。
さらに谷崎は、直接的に「音」に言及しはじめます。
音読はそれこそ高校までによく授業で行われる指導法ですが、大人になるにつれ、黙読を主とするようになります。大事なのは、黙読といえど、頭の中では声に出して読んでいるということです。
谷崎は、文章を綴る場合は自分で音読してみて、スラスラと言えるかどうかが大事だとし、
と述べています。
声に出して読んで心地のいい文章は「文章体」に多いですが、これは、音韻や文字数など、計算しつくされたかのようなルールの下に構築されているからだと私は思います。
このような点で谷崎は「文章体から学べ」と述べているのでしょう。
ここまでこだわって文章を書くことができる時間があるのはやはり文学の世界という感じもしますが、実用文においても、口語体の文章であるという点は同じなので、少しでも取り入れてみるとぐっと読みやすい文章になるかもしれません。
現在は、オンラインでの朗読サービスも散見され「音読」がだんだんと再興してきている感じもします。新聞や雑誌などまでこの対象になることは考えにくいですが、いつ何時自分が作家になるとも限りません(現在は発信できる機会が多いです)。いざというときに困らないために、日頃から「音」を大切にするのもいいかもしれませんね。
それでは、また次回。
※引用部において、書体の関係で一部旧字体から新字体に変更しています。
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