SPECTATOR 2020 Vol.46
たまには雑誌もよかろう。と思って、雑誌の紹介を書きはじめたら、前回もたまにはよかろうと洋書の紹介をしていたのを思い出した。まあ、旧正月もはじまったばかりだ。ご勘弁いただきたい。
ところで、旧正月の初夢はふたつ見たので、どちらが初かわからないが、ひとつは生後3ヶ月の我が子が突然、歩き出した夢で、もうひとつは年始に急逝した師がでてきた。よくある街の川のほとりで(ガードレールが敷かれているところがあるじゃない)、私はなぜか学校のイスに座って、左向きに伏せた状態で眠っていた。すると、私の傍らにひとが来て、頭を強くなでる者がいる。なでるというよりは、髪型をぐしゃぐしゃにしに来たのかもしれない。そして、街全体に師の本名が鳴り響いた。私は師がいらしたのかと、うっすらと目をあけたが、その途端、師が薄くなったので、またすぐに目をとじた。結局、師は私の左に憑いていた何かをとってくださって、去った。実は私は大概、不調が右側に出るから、本当は右の憑きものをとって欲しかったのだが。ところで、あれは三途の川であったのかしら。黄河のような雄大な川を無意識にイメージしてきたけれども、都会のちいさなドブ川が三途でもよいわけだ。兎にも角にも、夢のなかの私たちはいつだって、SPECTATOR(観客)である。
というわけで今回は雑誌SPECTATORにしたい。どのナンバーにしようか迷ったけれども、スーパーエディター秋山道男満載のVol.46にした。表紙下段には、「みんなの心にねじを巻く」とあるが、文字通り、秋山道男の言葉に心のねじが巻かれていくような一冊である。そもそも人間なんて、ぜんまい仕掛けのようなところがあるから、読書なり何なりで、時折、見えないねじを巻いてもらったほうがよい。まずは、ロードマンこと秋山道夫のこんな言葉からはいっていこうか。
この大人の発言を三十歳の私は、世界初のことができなさそうなときは、のんびりしていてよいと誤読し、特に三十代後半は南の島の強烈な直射日光を浴びたぬるいビールとともに、のほほんと暮らしていた。四十歳になると、さすがにひととしての知恵をつけはじめ、晴耕雨読という素敵な四字熟語をなぞるといった表現をするようになり、真顔で日々を暮らすようになる。しかし、だいたい余白がなければ、世界初のことはできまい。超多忙な雰囲気を醸しだしているものの、ナマケモノの師になれるくらい不動の日々を送りはじめることに成功した。ここら辺りは、家人が詳しい。そこで、マドレーヌだ。
我が家はマドレーヌではないが、家人はコンソメ味のポテチ全集を書けるほどではないかというくらい、ポテチの微妙な湿り気具合にも敏感であるし、私はノートの罫線に狂ったほど五月蠅い。要は、世界初と常軌を逸したこだわりというのは、わりあい正比例するのではないかということである。では、どう常軌を逸すればよいのかと云えば、これは人生の編集に他ならない。
億万長者になったら、南の島でのんびりと暮らすみたいな話はよく耳にするけれども、実際にやってみるとよい。一ヶ月もしたら、心底飽きる。そこに色恋沙汰や酒盛りが添えられても、せいぜい半年くらい賞味期限が伸びる程度である。そうではなくて、令和という時代に大勢のひとが暮らしている日常を、おもしろ可笑しく編みなおし、常軌を逸していくのが世界初へと繋がっていくのではないか。このような連打を「傾く」という。
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