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『時間と他者』エマニュエル・レヴィナス | 法政大学出版局
『時間と他者』の裏には当然、「空間と自分」が居る。相対性理論で時間が伸び縮みするということ、或る意味、感覺的には当たり前であったことに注意を払うならば、それと同時に空間の軽い重いあたりも感じられた方がよい。ここの空間とあちらの空間は、もっと云うならば、右手で触れる空間と左手で触れる空間の重さは異なるのだ。そんなのは当たり前なのだが、私たちは時間も空間も一定と教え込まれてきたから、まあ、一種の時空病に感染していたのであろう。
そこで本書の冒頭である。
「この講演の目的は、時間は孤立した単独の主体に関わる事実ではなく、そうではなくて、時間はまさに主体と他者との関係そのもである、ということを明らかにすることである」
古い書物だが、近代のボタンのかけ違いを直すには、ちょどよいテーゼではないだろうか。そして、本書がハイデガーより興味深いのは、「品詞転換」をキーワードとしているからである。
品詞転換とは、例えば名詞を動詞にするといった移ろいのことを指す。Xerox(ゼロックス)という会社をご存じの方も多いかとおもう。あまりに有名な会社だからか、いつしか名詞xeroxは動詞xerox(「複写する」という意味)でも用いられるようになった。無論、過去形はxeroxedだ。
この品詞転換は水と氷の関係よりも、個人的には信頼している。水が氷になろうが、氷が溶けて水になろうが、あれは所詮、名詞が異なる名詞に変わっているだけで、なんとなく地球上限りの出来事である印象を受ける。しかし、品詞転換はそこはかとなく宇宙的だ。つまり、名詞の「私」を動詞の「私」にする方法を採るということである。
例えば、今、この記事を草している傍らで赤ん坊が睡っているが、彼はモロー反射なるもので、勝手に腕を動かす。そんな反射で書道をし、そこに古典立脚した字があったなら、それは名作になろう。話をもどすと、生まれて間もない赤ん坊は、自らの意志で腕を動かしていない。ところが、成長していくにつれて、自らの意志で腕を動かすときがくる。爆発的に進化するのは、腕を動かす動力が反射から意志に移ろったときである。これは或る意味、動詞の「私」(反射)が名詞の「私」(意志)へと移ろったときだと、私は視ている。
ここからは秘伝になるけれども、もう少し続けようか。
今度は「反射」ではなく、「氣」で考えてみたい。世間では、よく「氣」と「意志」が混同されている。ドラゴンボールの影響もあるだろう。自分の「意志」で集められるものが、「氣」であると勘違いされている。このボタンのかけ違いで、一生を終えるひとがなんと多いことか。そんなものは、「氣」でも何でもない。
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