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「一部を見て沙汰するな・・。」

 7月末から夏休みに入り、今年も「暑い夏が終わるぜ・・・」なんて高校球児のように思っていたら、緊急事態宣言により、学校が休校。

夏休み延長。

「終わらない夏」となりました・・・。今も・・・。

 子どもが家に一日引きこもっていたら、当然”あれ”が起きます。

”あれ”

そう。”あれ”。喧嘩。兄弟の。

 もうどんなに、絵に描いたような家族だって、夏のそよ風がちりりんと風鈴が鳴る縁側でスイカを食べるような家族だって、水しぶきのあがる庭で犬と共に走り回る家族だって、寝ても覚めても、一日中一緒にいたら、大なり小なり起きます。喧嘩。

 「おやつ取った~。」だの、「おもちゃ壊した~。」だの。

もう、紛争が起きるたびに、調停役の母が呼び出され、双方の言い訳を聞き、沙汰を下す。

それが一日何回も。

「一方を聞いて沙汰するな。」と言えども、こう多くては、さすがの大岡越前だろうと、適当な沙汰を下すしかなくなるんでは。

いやそれか、もう途中で飽きて、御白洲の前に現れなくなるとか。

という事で、長い休みに度重なる紛争に疲弊していた大岡母御前は、今日も適当な沙汰を下していました。

「ルイが、せっかく作ったレゴ(デュプロ)を壊した!」

長男がうえっうえっと泣きながら訴えに来ている。

「壊れたんならまた作ったらいいじゃん。」

「あれは、作るのに2,3日かかったんだ!」

適当な母御前に長男が切り返してきました。

長男の、言い分も分かりますが、三男もレゴで遊びたいお年頃。

しかも、長男の超大作のおかげで、家中のレゴ(デュプロ)がほぼ使われており、残ったレゴでは、あまり遊べない。

三男は、壊したくて、壊すというより、ちょっとパーツを拝借しにいったらしい。

「いや、でもさぁ、レゴは、みんなの物だから、ルイだって何か作りたいだろぉぉ。」

「でも、壊されるのは、嫌だ!」

長男がこのレゴの超大作を作ったとき、得意げに作品の説明をしていました。

その説明を聞いて、「おぉ~!すごいな!」

と長男を褒めました。・・が、弟に壊されて「仕方ないだろぉ。」となだめすかしている私。母御前。

一生懸命作った物が壊される長男の悔しさも分かるし、保育園が自粛となり、一日家にいて、レゴで遊びたいという三男の気持ちも・・・。

長男が、もうレゴデュプロから卒業してくれることを願っていましたが、彼は、デュプロを愛していました。

あぁ・・・大岡母御前・・・。

「うーん。でも、やっぱり、レゴは、兄弟みんなで使うもんだから、ルイが使いたい時は、パーツを渡してあげないといけないだろう。ケイが使う時にまた作り直したらいいじゃないか。」

「そうじゃない!」

長男は、更にヒートアップし、泣き怒りました。

何故、長男がこうも怒るのか。

何故、長男がこうもレゴに固執するのか。

長男は、これまでにもレゴ大作を作っては、楽しみ、改良を加えては、作り直していた。

彼にとって、作り直すことは、さほど苦にならない作業だと私は、考えていました。

でも、長男の向けどころのないような怒り、悔しさが彼の中で爆発しているのです。

そして、それを上手く言葉で伝える術もなく、ぼろぼろと涙をこぼすのです。

何故?

私には、長男がワガママを言っているように聞こえていました。

私は、一度長男から離れ、三男とお風呂に行きました。

三男に水鉄砲で顔にお湯をかけられながら、自分の下した沙汰を考える為に。

入浴から上がると、長男が脱衣所の隅で座っていました。

「母ちゃん。」

彼は、すがるように私を見上げます。

話し合わないといけない。

「レゴが壊されたって、ケイの”凄い!”が壊されるわけじゃないんだよ。ケイが充分に凄いものを作れることを知っているから。壊れたものを更につくりかえたら、もっと凄いものを作ることが出来るんじゃないか?だって、作っているケイが凄いんだから。」

これでもかってほど、長男を褒めたたえました。普段、なかなか褒められないので効果抜群です。

この私の言葉に、長男の顔が一気に晴れました。

長男は、すくっと立ち上がり、スタスタと壊れかけのレゴの元へ行き、作った大作をがしゃんがしゃんと壊し始めました。自らの手で。

さらに、

「ルイ、どのパーツが欲しい?」

敵対していた三男へ歩み寄りました。

な、なんなんだ?

と驚いていていましたが、長男の納得した顔を見ていると、その気持ちがなんとなく伝わってきました。

自信を持ちたかった。

長男の中で、レゴを作ること=褒められること=自分の自信へとつながっていました。

それを、目の前でがしゃんがしゃんと壊されると、目に見えない自分の自信まで壊されている気分になっていたのでは、そう感じます。

褒められたことが嬉しくて、自分の長所として積み上げようとしてたものだったからこそ、固執していたように思います。

それを崩されることは、自分が崩される思いだったのでしょう。

一つの事を、やり続けることは、とても大事で、これからも子どもたちに身について欲しい”行い”ですが、「これしかない」と思ってしまうのは、危なげなことでもあります。

壊れても大丈夫という絶対的な自信を確立させるのか、「こっちがダメでもこっちがあるさ」と選択支を持ち合わせるのか、自分で自分を守るような考え方も模索してほしいとも思います。

ただこれは、本人自身がこれから考えていくこと。

今、母が出来るのは、

もっと認めていってあげなきゃなぁ。

この一言が心に浮かびました。

「認められたい!」という承認欲求は、多分、いくつになっても続くものだと思いますが、子ども時代の親からの”承認”というのは、また、格別に強く、その子のアイデンティティに関わってくるほどの重要なものだと痛感しました。

日常生活でかなりの確率で適当に返事をしてしまう、「お母ちゃん、見て!」の連発を少しオーバー気味にリアクションを取ってあげないとなぁ。

大岡母御前は、今日も深いため息をつき、御白洲を後にするのでした。




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