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【読書記録】それは誠(乗代雄介)

出先で乗代雄介さんによく似た人を見かけた。あれ?と思い目を向けるとコクヨのキャンパスノートを手にしている。最新作の舞台からもほど近い立川。ひょっとするとご本人だったのではないか。大ファンですと声をかければよかったか、いやいや迷惑だろう。でもやっぱり、そのノートに風景描写されているんですかなんて尋ねてみたかったと、諦め悪く空想する。

大ファンを自称するくらいなので、乗代さんの新作は文芸誌まで追いかけている。文學界6月号に掲載された「それは誠」はGWの終盤、帰省先からの長距離ドライブをこなした日の夜に読み始めた。さわりだけのつもりが中盤から先はすっかり止まらなくなって、結局深夜までかけて一気読みしてしまった。

読み終わってまず、パパイヤ・ママイヤを思い出す。パパイヤ・ママイヤは女子高生2人の夏休みの物語で、本作は中学生7人の修学旅行の話だから筋書きは全く別物だが、乗代さんが「奇跡を許した」という「パパイヤ・ママイヤ」と同じくらい「それは誠」も眩しかった。

あらすじ

主人公の誠は冒頭から最後まで、どこか冷めてひねくれて、厭世的な雰囲気を醸し出している。はじめから「禁欲的で自罰的つまり模範的な学校生活を過ごしてきた」、「生い立ちに引け目を感じているからかもしれない」、「特筆すべき人間関係なし」、「友達は俺と僕と私だけ」などと宣う(p11)。どうしてか人を信じようとせずに、孤独でいようとする。クラスメートに媚びるようなことはしないし、友達を作ろうとさえしていないように見える。

かといって、一切外と閉じてだんまりを決め込むわけではなく、周囲が「お前そんなこというの?」と驚くようなことを突然やりだす。生い立ちを話しだしたりもする。それがきっかけになって、班員たちは誠を放っておかない。出来すぎなくらいにやさしい。青春は、世の中はこうあってほしいと思う。泣く。

ここまでが一読目の感想。ここから先は再読しながらの感想をネタバレ込みで書いてみる。気になった点がいくつかある。

誠がおじさんに会おうとしたのは何故か

孤高主義の誠が突然、班員を巻き込んでまで日野に行こうと言い出したのはなぜか。誠は誰かに心を開こうとはしないタイプに見える。班員の6人とも仲がよかったわけじゃない。なのに突拍子もなく、うらわ美術館とか日野に行きたいなんて言っちゃう。引かれるでしょう普通。

プラン決めの話し合いの前日、撃ち合いの真似事で小川楓が退屈そうな目をしているのを見て、それからその目を何度も思い出しながら「芽吹いた計画」があると誠は書いている(p20)。それを素直に受け取るなら「班員が抜け出すのは面白いだろう、少なくとも(小川楓の)退屈しのぎになるのではないか」と考えたということか。

誠は「自分が何を望んでるかわかったことなんて一度もない」「自分のためには何もできない」(p72)とも話しているから、「どうなってもいいが、何か面白いことが起こるかもしれない」と半ば投げやりに、半ば勢いで提案したとも読める。

一方で中盤、蔵並から「なぜおじさんに会いたいのか」と問われても誠は答えようとしないし、終盤、松のお母さんとの電話のくだりでは「ぶちまけちゃうと、僕はそれを見たからおじさんに会いたくなったんだ」とも書いている。NHKの番組で吃音者が、TSUNAMIの「見つめあうと素直におしゃべりできない」というフレーズを弾く姿をみて、同じく吃音者であるおじさんに会いたくなったのだと。

そしてそんな自分を「悍ましい奴」だという。

ピアノを通じて前向きに生きている吃音者の姿をみて、おじさんも幸せでいてくれたらいい、いまはどうしているだろう、姿を見たいという願いは、やさしさのようにも見える。

しかし誠はおじさんと会う前から「昼の仕事には絶対についていない」と決めつけているし、会うなり、きっと上手く話せないだろうと「何も話さなくてもいい」と伝えてしまう。その悪さを自覚してもいる。

“かわいそうなおじさん”と心のどこかで見下しながら、退屈しのぎになるかもと軽々に会いにいこうとしたというなら、それは確かに悍ましいことなのかもしれない。

途中、松を馬鹿にした態度を取る警官が許せなくなって、誠が木の棒を投げつけるシーンがある。初読ではやさしさの表れ(暴発)だと感じたが、読み直してみると、半分は同族嫌悪だったようにも思えてくる。

そんな本心を取り繕いながら、誠はおじさんに会いに行き、その思い出(と後悔)を振り返りPCに打ち込んでいるということになるんだろうか。

誠が頑なに独りでいようとするのはなぜか

大日向や小川楓、井上はいわゆるカースト上位風の面々だし、蔵並は特待生という立場なのに、訳の分からないことを言い出す誠に付き合ってくれる。冷たくされたり、距離を取られてもおかしくないはずが、6人はそうはせずに誠に努めて優しく接する。

大日向は気がつけば誠と呼んでくれるようになり、蔵並は一同代表で「誠は友だちだ」と(きっと)答えてくれていて、小川楓は「誰が佐田くんが笑顔の写真を撮れるか競っている」(誠が気がかりだからみんなにそう提案した?)と明かしてくれる。

そんな宝の地図のような経験をしても、誠は閉じている。警官とのやりとりや墓地で食べたピザ、日野で見た夕暮れなんかの思い出話をしようとするのではなくて、何日も家にこもって独りでPCに向かっている。

本当は小走りで登校して、みんなに会いたいんじゃないか。なぜ誠はそうしないのか。

ラストシーン、誠は小川楓とのやり取りを振り返りながら「僕は自分の知らないところで何かが起こってるのだけがうれしいんだ。それでずっと一人でも平気なんだ」と書いている。中盤、一緒に溺れてやろうと思ってるという蔵並に対しても「僕は物心ついてこの方ずっと溺れているみたいなもんだ。正確には、泳ぎながら溺れてるんだ」という。

このあたりのくだり、誠がなぜそう思うのか、何度読み返しても私にはよく理解できない。誠がこじらせている孤独ってなんなのか。自分が悍ましいと感じられるからと言って、あれだけの体験をしながら、あたたかく接してもらいながら閉じきってしまうものなのか。

1周目にはモニターに書き連ねられる出来事をただただ眩しく感じたはずが、読み返すほど、モニターの前に座る誠が「いま」どうしているのかが気にかかる。おじさんに伝えた「パソコン、“いま“も使っているよ」という言葉は、「僕はいまも独りだ」という宣言なんだろうか。ラストシーンの小川楓とのやり取りまで打ち込んだあと、誠はどうしているのだろう。

はじめは「これは実写化してほしい」なんて思いながら呑気に読んだのだけど、読み直してみて容易でないと気づく。映像化するならラストを、モニターの前の誠をどう表現するのか。いっそのこと割り切って、モニターの中だけの華やかな出来事だけ描くのか。

原作と見比べながらぜひ見てみたい。
まずはどうか芥川賞、受賞されますように。

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