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【エッセイ】受験期の夜明け 『ひよこトラック』

この時期になると思い出すのは、大学受験のために缶詰めになっていたころの、朝焼けの冷たくもやわらかな光だ。

共通テストが終わり、二次試験に向けての特別課外授業のために朝7時から夕方7時まで高校にいた。電車通学だったから、始発に乗っていた。朝型に切り替え、4時半に起きて勉強してから学校に向かう。始発は6時半、これを逃すと7時半まで二本目は出ない。田舎の電車は一時間に一本が相場なのである。

ある日の現代文の講義の日、先生がおっしゃった。
「今日の演習の課題文は、本当にきれいな文章よ。」

”男が窓辺で過ごす時間のなかで一番好きなのは、夜明け前だった。闇が東の縁から順々に溶け出し、空が光の予感に染まりはじめる。一つずつ星が消え、月が遠ざかる。”

帰り道に駅近くのマックで同じくらいの年齢の高校生カップルを見ると、泣きたくなることがあった。私は、毎日受験勉強をしていて、朝も昼も夜も、何かしらの書籍を手にしている。無理をしている自覚はなくとも、不安は常に付きまとっていた。自分と同じ高校生なのに、時の流れが彼らとは全く違うような気がして、むなしくて泣きたくなった。心にしみわたる何かが欲しかった。優しくじんわりと包み込まれる感覚が欲しかった。

朝、駅に向かうまでの最後の坂を自転車で滑るように下りながら、起きだしてくる太陽を迎える。新鮮な冷たい空気を通して届くその光は、どこか重く冷たく、生まれ育った町からいよいよ出ていかないといけないのだといわれているような気がした。だからといって、私を照らすその光はどこか優しく暖かく、それはもう、それだけで第一志望の大学に合格できる気もした。

”世界がこんなにも大胆に変化しようとしているのに、物音は一切しない。すべてが静けさに包まれて移り変わっていく。”

自分にとって大事なことが起きようとしている。それはわかっている。受験勉強をする、それだけの事で手繰り寄せていいのかもわからないくらいの変化であることだって、自覚している。

それでも、私は受験も卒業も上京もどこか他人事としてとらえていた。
それでいて、朝焼けやマック一つで気持ちが大きく揺れ動くくらい、繊細だった。
そのくらい、世界は窮屈で感受的だった。

”いつの間にか星は残らず姿を消し、朝焼けが広がろうとしていた。生まれたばかりのか細い光が、一筋、二筋、果樹園に差し込んでいた。しかし静けさはまだ、夜の名残に守られ、男の手の中にあった。”

 サークル、課題、バイト。いつのまにか大学生になっていた私は、すっかり夜型になってしまった。勉強の息抜きに見る空は南にオリオン座を据えているし、太陽は迎えるより見送ることの方がずっと多い。

それでも、あの頃の気持ちは、なにものにも代え難い心のざわつきとともに鮮明に思い出す。勝手に変わっていく世界が、非情に見えて仕方なかった。
勝手に始まったくせに、勝手に終わっていくのか、と毎日心の中で受験期そのものに悪態をついた。

あの日々に戻りたいわけではないが、二度と味わいたくないわけでもない。
ただ、あのとき抱いておいてよかった気持ちだ、と思う。あの頃の私がいなければ、『ひよこトラック』の夜明けにだって、こんなに沈み込んでいけなかったはずだ。

頑張れ、全国の受験生。頑張れ、必死だった小さな世界の私たち。
夜明けは、すぐそこだ。

「ひよこトラック」 『海』新潮文庫に収録 小川洋子


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