古伊賀 破格のやきもの:4 /五島美術館
(承前)
本展には、以下のようなキャッチフレーズがつけられている。
リーフレットの両面に同じものが採用され、展示パネルの「ご挨拶」もこれに即した内容となっているが、じつのところ、このコピーには違和感をいだいてしまった。正確には「巧まずして生まれた」という点に対して。
古伊賀というやきものは、わたしの目には、作為性に満ちたものと映っている。「むしろ、巧みまくってるじゃん!」というわけだ。
もちろん、いわんとしていることはよくわかる。《破袋》の亀裂、ボロボロとした黒い降りもの、そして滑らかに溶けた自然釉は、いずれも窯の内部の苛烈な環境に左右されて、作家の意図を超えて生じた変化である。人がすべてをコントロールするのではなく、土と炎に多くを委ねた結果、この造形美が生まれている。
ただ、焼成する前の姿をみれば、きつく歪みがつけられ、ヘラで力強くえぐったり、溝を走らせたりした、きわめて作為的要素の強い造形である。この時点ですでに、「巧まず」というには厳しい。
また「最後は自然にまかせた」といいきれるものでもなさそうだ。
前回も触れたように、古伊賀の花生や水指は、片面ともう片面とで、景色が大きく異なっているケースがほとんど。
つまり、窯の中での炎の当たり具合、風の流れ、温度などを研究し、灰の降り方にある程度の予測を立てたうえで焼成している。計算された、「巧んだ」面は大いにあるはずだ。
ただ、そのような意図を超える偶発的な効果もまた重視され、歓迎されたには違いないだろう。
《伊賀耳付花生 銘 慶雲》の表面には、籠目やジグザグなどの抽象文がヘラで刻まれている。
焼成すると、緑のビードロ釉がたった一滴だけ、耳から肩にかけてしたたり、籠目の縦の線を伝って落ちていった。窪みのところだけ釉薬が多く溜まり、緑は濃くなっている。このひとしずくは、意図されたものではない。
《慶雲》のみごとな景色を観たとき、自然と人間による合作であることが確かに感じられ、胸を打たれたのであった。
同様の思いを、本作に接してきた多くの人が感じてきたことだろう。
「合作」には、使用する側、あるいは鑑賞する側の人間も、関与することができるのかもしれない。
古伊賀の主な器種は花生であり、水指。いずれも、内部に水をたたえる袋物だ。
古伊賀の肌は岩肌を、緑の釉色は苔や、岩壁からにじみ出る水分を思わせる。花生ならば野にあるように花を生けられ、水指ならば山中の湧水を汲むように水を掬うことができよう。茶席に山深い自然を持ちこむ、恰好の舞台装置たりうるのである。
このように、使う側の想像をかきたてるやきものが古伊賀だと思う。中世古窯の壺などには同種の風韻をもつ作があるけれど、古伊賀には人為の強さがさらに加わって、観る側を刺激する。
たとえば《灰釉伽藍石香合》(東京国立博物館)。形物香合番付で上位に挙げられる、古くから知られた作品だ。
苔むした古寺の礎石を表しているというが、ほんとうにそういった意図のもとでつくられたかは、正直わからない。「伽藍石」は後年の見立てで、じっさいは別のものを造形化したのかもしれない。
そんな想像も楽しいが、思考を停止して、これが伽藍石だとしても……苔に覆われたちっぽけな礎石を除いて、いまは跡形もなき廃寺の往時の栄耀、時の経過、歴史の累積が、この陶製小箱からは濃密に漂ってくるのだ。それは、中に収められた香によって、香りとなって立ちのぼることにもなる。
古伊賀のやきものを観ていると、さまざまな感慨が去来する。“鑑賞者参加型” とでもいえようか。
それこそが、古伊賀が珍重・愛好されてきたゆえんなのだろう。