没後50年 鏑木清方展:8 /東京国立近代美術館
(承前)
画帖『築地川』:下
「『築地川』なんて川、あったかしら?」
東京の街に日頃馴れ親しんでいても、そのような反応をする人のほうが多数派ではなかろうか。
築地川は一部を残して干拓され、跡には首都高が通っている。
歌舞伎座の前から築地へ抜ける途中に首都高を跨ぐが、この橋の下を、かつては川が流れていたのだ。「築地川」の名前は、周辺の公園の名称としてかろうじて残っている程度。乗用車やトラックがビュンビュン飛ばす直線道路に、船頭がゆったりと木舟を漕いでいた面影はつゆもない。
この築地川の沿岸で過ごした少年時代のことを、清方はたびたび文章に綴っている。それらの文とともに絵を楽しみ、さらに現地に赴くことすら容易にできてしまう喜びは大きいけれど、往時との違いには唖然とさせられて、いつまでたっても馴れることがない。
なにもかもが変化していれば、そんなふうに感じることもかえってなかったのかもしれないが……「溝」という地形には変化がないだけに、余計に残酷に思えるのである。
前回に引き続いてまたまた個人的な話となり恐縮だが、この旧築地川の周辺をしばしば通りがかる。そのたびに、清方の画帖『築地川』を媒介として、この長い溝に水が満々とたたえられていた頃に想いを馳せるのである。
画帖『築地川』には、下町の庶民の暮らしぶりや、外国人居留地や芝居小屋といったこの土地らしいひとコマが、詩情豊かに描きとめられている。
画帖の全体像は、次のようなもの。
あっさりとした淡彩の筆致は、遠い昔の記憶ながらいまもなお鮮明であるというところと、霧に包まれたように霞んだおぼろげさを同時に感じさせて、味わいが深い。
地図や地誌といったものは克明かつ網羅的に、そしてドライに、土地のもつ歴史を教えてくれる。
翻って清方の『築地川』は、断片的な場面を独立した形式で描いた10図からなり、ごく個人的な思い出・思い入れにもとづいたウェットな性格のものだ。
すでに失われた土地のリアリティを描くには、前者のみでは足りないのではと思っている。後者のような性格の情報を集め、蓄積することで、みえてくるものがあるはずだ。民俗学の視点がまさにそのひとつであるが、この土地の幸福は、往時をよく知る者のひとりに、清方という稀代の絵描きがいたことに他ならない。(つづく)
※築地川の埋め立てについては、以下のブログでかなり詳しく調べ上げられている。よくもまあここまで
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