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雰囲気のかたち―見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの:3 /うらわ美術館

承前

 牛島憲之《残夏》(1946年 個人蔵)。
 まろやかに、とろける風景。残暑のむせかえる熱気が、脳裏によみがえってくる。「涼」とは異なる順接的な見せ方で夏の暑さを表す絵というのは、案外めずらしいかもしれない。

 図録に引用されていた、作者の言葉がおもしろい。

私は全く忠実に自然を写すということに終始しているつもりでいます

 ——ご覧のように、ヘチマの実も葉も枝もチーズフォンデュがごとくに垂れ下がっており、空と地面の境はあいまいで、人も牛もやがてその中に溶けて、同化していきそうだ……しかしながら、牛島流の「忠実に自然を写す」とは、こういうことなのだ。
 視覚で捕捉可能なうわべの姿をなぞれば、写実になるわけではない。観察と写生を繰り返すことで、その奥にある本質的なかたちを捉えるということが、作者の言わんとする忠実性なのだ。絵を観て「暑さ」が肌感覚で伝わってくるというのは、まさにそういった作用によるのであろう。

 前回を含めて、「気象」の表現を志向した作品の紹介が続いた。
 より抽象的な「心象」「生気」といった「雰囲気」を示す例として、小川芋銭《寒根生意》(1924年 個人蔵)を挙げたい。

 太い幹の枯木から、もわっと空へと立ちのぼる。
 雲や煙ではない。虹、龍とも違う……タイトルにある「生意」こそがその正体であるが、それにしても、ふしぎな絵だ。
 主題のヒントは、制作年にある。
 いまからちょうど99年前——関東大震災の翌年にあたるのだ。

 枝葉を失い、朽ちつつあるとおぼしき枯れ木から、なお「生意」が噴き出し、空中を舞う。
 そこに、打ちのめされた者がまた立ち上がる姿、つまり、被災からの復興が、鎮魂が、象徴されている……この絵に関しては、こういった解釈が広まっている。「生意」とは「生気」「生動感」ほどの意味かと思うが、さらに踏み込んで「生への強い意志」と理解したくもなるものだ。
 東日本大震災のちょうど1年後に茨城県近代美術館で開催された「小川芋銭展 震災後の眼で、いま」にも出品され、話題を呼んだ本作。その展覧会名を借りれば、芋銭がまさしく「震災後の眼で」捉えた、抜き差しさらぬ時代の「雰囲気」が、この絵には焼き付けられているのではと思われるのである。

 河口龍夫は、東日本大震災の被災地から漂着した竹を鉛でコーティングした。鉛は、放射線を遮断する物質である。
 竹筒の空洞には、彼の地の時間、空気、記憶がそのまま滞留している。それを、河口は密封保存したのだ。

 われわれは、鈍く光るその竹筒を、じっと見つめる。説明なしであれば……というか、じっさい、その内部にはなんにもない。空洞だ。
 だが意味を知ったとき、目に見えない、そしてたしかにここにある暗闇は底無しに深い、まったく別のものに感じられるのである。なにかの気配、そこに思いをいたす表現が、ここにもみられる。(つづく




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