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生誕140年記念 石崎光瑤

 美術館でときおり見かけて、ちょっぴり気になる存在だった石崎光瑤(こうよう  1884~1947)。
 花鳥画をよくし、富山の福光に作品がまとまって残っている日本画家……というくらいの前知識しかなかったのだが、このたびの大回顧展を拝見して、これほどエピソードに事欠かず、かつ、それに見劣りしない輝きを放つ作品を残していることに、たいへん驚かされた。

 富山県南砺市(旧・福光町)に生まれ、12歳のとき山本光一に師事。光一は酒井抱一の系譜に連なる琳派の絵師で、このとき金沢に移っていた。竹内栖鳳のもとで本格的に絵を学ぶよう勧めたのも光一であり、運命的な出会いといえよう。「光瑤」の画号は、光一から1字をもらっている。
 ただし、作風という面からすれば、琳派が画業の最初にあるというのは少々意外な感じもした。光瑤の絵にも装飾性の高さが認められるが、けっして大人しくまとまってはおらず、ギラギラとした生命力がムンムンとあふれかえる作が多いのだ。
 下に、代表作3点を掲げてみるとしたい。《熱国妍春》(大正7年〈1918〉  京都国立近代美術館)、《燦雨》(大正8年  南砺市立福光美術館)、《白孔雀》(大正11年  大阪中之島美術館)……筆者の言わんとするところが、きっと感じていただけるのではと思う。

 これら血気盛んな光瑤の絵からは、琳派だとか桃山絵画などにかぎらず、なにか特定の影響源に帰することを拒んでいる印象すら受けている。だが、それでもやはり等閑視はできないなと思うのが、次の2つの側面である。
 まずは、山好き。山登りを愛好した画家としては他に山元春挙、川村曼舟なども浮かぶけれど、光瑤はちょっとレベルが違う。日本山岳会の草創期の会員であり、明治42年には故郷・富山の劔岳(標高2,999メートル)を民間人として初めて登頂、大正5年には(絵画のためではなく)ヒマラヤ登頂を目指してインドへ渡り、高山を渡り歩いている。
 つまり、雪山・絶壁に挑む「ガチ登山」の人であり、自然のやさしさだけでなく、人間をいともかんたんに生死の境へと追いやる、厳しく激しい、それゆえに劇的に美しいありようを、光瑤は身をもって知っていた。
 そういった点を踏まえて作品を観ると、腑に落ちるものがあると思うのだ。

《燦雨》(部分)。
金の雨が、横殴りに襲いかかる
そのすき間を、懸命に逃げ惑う鳥たち。
翻弄される花や葉、枝

 また、伊藤若冲の存在も見逃せない。若冲という絵師について、光瑤は当時にしては珍しく高く評価し、研究していた。
 大正14年にはなんと、大阪・豊中の西福寺で若冲の傑作《仙人掌(さぼてん)群鶏図》(重文)を発見している。本展には、光瑤による精巧な模写を出品。

 怖いくらいの勢いで植物が繁茂し、鳥が誇らしげに舞う——ある種、爆発的ともいえる生命感を映したトロピカルな異世界感は、若冲とも大いに共通する。
 それは「他人のそら似」では片づけられず、光瑤が確かに若冲から影響を受けている証左でもあるし、両者の美意識や目指すところがシンクロしていたともいえるのだろう。

《熱国妍春》(部分)
《雪》(大正9年  南砺市立福光美術館)。こちらは、光瑤自身が若冲からインスパイアされたと語っている作品。雪中の鴛鴦は、若冲が何度か描いているモチーフ


 ——本展は2フロアから成っており、前半ではここまでみてきたような主に大正期までの作が、後半では以降の昭和期の作品が並んでいた。
 わたしは前者の作に関して、先ほど「なにか特定の影響源に帰することを拒んでいる印象」と書いたけれど、後者では一転して南宋院体画など、下敷きになっている古画がなにかが比較的わかりやすい、おとなしい絵が多かった。
 若き日の、まぶしくて目がくらんでしまうほどの熱気や輝きを超える作品はついぞ生み出せなかった(と少なくともわたしは思った)けれど、それもまた人生。
 そういった “起伏” のようなものが感じられることにこそ、作家の回顧展ならではの醍醐味があるともいえよう。

 京都文化博物館での展示は、昨日10日に閉幕してしまった。来年1月25日から3月23日まで、静岡県立美術館に巡回予定。


 


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