出光佐三、美の交感 波山・放菴・ルオー /出光美術館
今年の6月1日から7月7日まで開催されていた、長期休館前の一大シリーズ企画「出光美術館の軌跡 ここから、さきへ」の第2弾。
出光興産の創業者にして出光美術館の創設者・出光佐三が、同時代を生きる作家本人たちとの直接の交流のなかで築いたコレクションを紹介する内容となっている。
タイトルこそ「波山・放菴・ルオー」であるものの、ジョルジュ・ルオーに関しては「特集」としてサム・フランシスとともに若干数が割かれるのみで、実質的には近代日本陶芸の巨匠・板谷波山、抒情と品格の画家・小杉放菴(ほうあん)のふたりが本展の中心。
最初に生没年を整理しておくと、以下のようになる。
プロローグでは、佐三とふたりの長い交流のはじまりを示す作品とともに、それぞれのポートレートのタペストリーが3本並べて吊り下げられていた。
《絵唐津丸十文茶碗》を愛おしげに掌に抱く出光佐三、作品を手に厳しい眼差しを注ぐ板谷波山、そして、カボチャを持って座っている小杉放菴……しかも、カボチャの放菴が真ん中である。
3段オチの最後ではなく、中尊に控えているあたりがツボ。思わぬ形で、なごまされた。
※本展の出品作ではないけれど……放菴のカボチャの絵。
上記のように、波山と放菴は11歳離れており、作品の面で明確に結びつくこともない。
しかし、その陶業・画業がたどった道筋には、リンクするところがある。それこそが本展の骨子であり、章立てにおいても端的に表されている。
波山は日本に居ながらにして、アール・ヌーヴォーや北欧陶器といった欧米の潮流を独学で摂取した。長い陶業の初期、工芸界を駆け上がっていく大正前半までの作品に、アール・ヌーヴォー風が色濃い。
甘美、ときに奇抜だった作風は、大正中期から、中国陶磁を規範としたかたちと文様の追求・深化へ舵を切っていく。《葆光彩磁花卉文花瓶》(1928年頃)は、その成果のひとつ。
放菴は当初「未醒(みせい)」と号し、大正2年(1913)には渡欧しパリに学ぶなどした、「バリバリの洋画家」であった。
ところが、そのパリで未醒が目にし、衝撃を受けたのは……池大雅《十便図》(川端康成記念会 国宝)の複製だった。
翌年の帰国後には墨を使って描きはじめ、さらに数年を経て東洋風の雅号に変名、中国を周遊……やがて作品の中心は墨画淡彩となり、文人画家・日本画家として認知されるに至る。
未醒時代の《出関老子》(1919年)、放菴と名乗ってからの《湧泉》(1925年)。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの影響を受けた平明で静かな作風は、いっぽうで文人画の軽みをまとっており、まさに西洋と東洋の合いの子といった感を受ける。
明治の終わりから大正はじめにかけての若き日に西洋の芸術に触れ、大いに感化されたのちに東洋的な美に覚醒・回帰、東西を融合させた作風へと転換をはかっていく——こういった点が、波山と放菴に共通してみられるのだ。
さらにいうと、大正とは、そのようなターニングポイントの時代であった。ウィリアム・ブレイクやロダン、セザンヌなど西洋の思想・芸術に傾倒していた柳宗悦が「民藝」を発見したのも、ニーチェの研究者であった和辻哲郎が古寺巡礼のブームを巻き起こしたのも、大正後半に起こった出来事。
放菴《湧泉》に描かれる女性は、天平風の衣装をまとっている。
この種のモチーフは同時期に多くの画家が描いているが、工芸においても「古代模様」といった呼び方で、正倉院宝物や法隆寺などに残る古代の意匠を活用しようという動きがさかんにみられた。
本展出品作の波山《葆光彩磁細口菊花帯模様花瓶》(1919年)。ボウリングのピンのようにスッと立った鶴首に、燃えさかる火焔の意匠がよく沿ってたいへん品格が高く、美しい。
炎の先端が、妖しく細く、伸びている。霊気たなびくとすらいえる先端部の表現は大正後期に特徴的で、わたしの最も好むところ。
この火焔は、法隆寺夢殿の本尊・救世観音の光背からとられたものだ。
古代模様の活用奨励は明治以来であるし、その流れを受けて、波山は他にも仏教美術に取材した作品をいくつも残しているけれど……今回、初めて気づいたのは、本作の制作年が、和辻哲郎『古寺巡礼』の出版年と同じ年であるということ。
同書においても、救世観音は「夢殿観音」「夢殿の秘仏」として、ひときわ印象的に言及されている。
本作には、当時のベストセラーから受け取ったインスピレーションが、もしかしたら潜んでいるのかもしれない。
波山と放菴、ふたりの作家と出光佐三との深い関係を、より直接的に示す作品も。
放菴《天のうづめの命》(1951年)は出光興産のタンカー・日章丸のために描かれ、船長室に飾られていた作品。天の岩戸の前で舞い踊るアメノウズメのモデルは、あの笠置シヅ子。趣里さんに見えてきた。
波山は、少しでも満足のいかない出来の作品は世に出さず、みずから打ち割った。《天目茶碗 銘 命乞い》(1944年)もまたそういった運命にあったが、波山がトンカチを手にまさに割らんとしていたところを佐三が「命乞い」し、譲り受けたというエピソードがよく知られている。
コレクターとの関係性を示す興味深い逸話であるし、禾目(のぎめ)状に細かく流れ、劇的に変貌していく「命乞い」の釉調がたいへん美しいのは確かであろう。
だが、作家自身が判断したとおり、作品として世に出すものではなかったはずだ。裾の玉垂れや見込の溜まりは過剰で、天目形の姿を害してもいる。
エピソード込みで、「命乞い」を代表作かのように扱いたがる記事をときおりみかけるが、よろしくないよなぁと個人的には思う。
——点数としてはごく少ないものの、「日本画のような表現」と称して、ジョルジュ・ルオーとサム・フランシスの作品を一所に展示。
佐三が愛した欧米の画家であるが、美意識の軸足はやはり日本・東洋にあった。ルオーの黒々と太い輪郭線、サムの余白を活かした表現が水墨のそれに通じると、佐三はみたのである。
サムは、久々の蔵出し。もっと拝見したかったけれど、休館までの展覧会ラインナップからして望みは薄く、再開館を待つほかなさそうだ。次の機会は、いったい何年後になるのやら……
※波山と放菴のふたりには、出身や住所に共通項がある。ともに北関東の比較的裕福な家に生まれ(波山は茨城の下館、放菴は栃木の日光)、東京では北区田端に長く住んだ。放菴が仲間内でよくテニスをしていた「ポプラ倶楽部」は、波山宅の隣。