![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/91683165/rectangle_large_type_2_24b0510e3bf06d0d2e0a33f57d4d884a.jpeg?width=1200)
李禹煥:4 /国立新美術館
(承前)
異なるものとものや、同一の複数の個体を対置させる《関係項》。
どの作品の前にもガラスや柵は設けられず、極限まで鑑賞者に開放されていた。
このような環境下では、「関係」の中間の位置に第三者のわたしたちが踏み込むことすら、容易にできてしまう。
こうした行為は物理的な侵入・干渉であるのみならず、鑑賞者=わたしが「第三、第四の関係」を新たに結びうることをも意味していよう。
指をくわえてガラスや柵の向こう側を見つめる段階を脱して、みずから内側へ参入し、一対一以上の関係性を築く――自分もまた、作品の一部をなすのだ。
この「参加型」ともいえそうな傾向をより強くみせるのが《関係項―棲処(B)》(2017/2022年 作家蔵)。もとは、ル・コルビュジェ設計のラ・トゥーレット修道院を舞台に展開されたインスタレーションだ。
床一面に敷き詰められた、黒々としたスレートの石材。ぐらついて安定しない足場を、鑑賞者はガチャガチャと音をたてて歩いていく。石材を積み上げた山があちこちにあって、賽の河原を思わせる。
スレートというより、硯石と呼んだほうが通りがよいだろうか。硯の原材料になる石材で、断面がミルフィーユ状の層になっていることもあって加工がしやすい。
本作に用いられるスレート材は薄くカットされていて、すなわち、とても割れやすい。人がその上を歩けば、割れや欠けは必至だ。
このおぼつかない足下と歩み、その音、そして石材の一部が「壊れてしまう」ことまでを含めて、おそらく作品なのであろう。もろい素材の上をあえて歩かせるということは、そういうことだ。
わたしが展示にうかがったのは会期の終盤であったが、展示開始当初とその時点とで、本作の様相はかなり違っていたのではなかろうか。会期をとおして石を、作品を「育たせる」、そういった趣向の作と感じた。
参加型に類する展示は、屋外にも2点ほど設置されていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1669034580959-eIEDh1oSjP.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1669040815657-UVI3XyQhzn.jpg?width=1200)
《アーチ》は、いうまでもなくその下をくぐる。金属の板が落ちて下敷きになりそうで、ちょっとだけこわい。そんな吊り橋効果もあってか、くぐる瞬間には特別ななにかを感じたのであった。
《エスカルゴ》は、その名のとおり渦巻状に丸めた鉄板を立てたもの。渦巻の内部へと、鑑賞者は潜入していく。中になにがあるかは……入った人のみぞ知る秘密だ。
――門の向こうへ、渦巻の中心へと、鑑賞者を誘う。
作者の導きに従うことにより生み出される新たな「関係」とは、作品と鑑賞者のあいだに結ばれるものともいえるし、同じ体験を共有した鑑賞者どうし、いまこのときに展示場に居合わせた者どうしのあいだに築かれるものともいえるのだろう。
こればっかりは図録でも、映像でも伝わらない……つくづく、図録の編集者やデザイナー泣かせの展示だなぁと思う。(つづく)
※スレート材は建材としても用いられた。東京駅の駅舎の屋根瓦は宮城県雄勝産のスレート