なにかを自分から絞り出すということ - 舐達磨とイサム・ノグチ
創作の難しさ
梅雨が終わった。
梅雨は嫌いだ。生来汗っかきである私は、湿度が高い環境下では、汗がとめどなく流れてしまう。だから、こんなに湿度が高い季節は苦手だし、嫌いだ。
でも、今年の梅雨は、一味違った。
それは熊谷出身で現在3人で活動している舐達磨というHIPHOPグループが昨年リリースした「BUDS MONTAGE」という曲に出会ったからかもしれない。
雨に溶け込むような素晴らしいビート。その中を、強く流れるパンチライン。淡々と彼らの生活に根ざしたリリックが流れ、それがどこか儚さの漂うビートに絡み合って、脳みその裏側を刺激するような感じ。私はこの曲に病みつきになった。
(※舐達磨というグループは非常に魅力的なのだが、本筋から外れてしまうのでここでは割愛することにする。気になった方はぜひYouTubeで彼らの曲を聞いて欲しい。飛ぶと思う。)
会社の行き帰りはもちろん、厚い雲が垂れ込めているせいで頭が異常に重い日にも、この曲は私を静かに発奮させた。
音楽は不思議だ。人を悲しい気持ちにさせることもあれば、人を静かに沸き立たせることもできる。
久々に心が震えるような音楽に出会ったので、彼らに関する様々な情報をネットで調べていたところ、以下のインタビューに出会った。
この中でも、「リリックを創作する時の状況」について問われた時の、BADSAIKUSH(中央)の回答が興味深かったので、書き起こしておく。(動画内3:55以降のやり取り)
Q. それぞれがこういうときになんかリリックを書く時、こういう状況だと一番ペンが乗るみたいなそういう状況っていうのはありますか?
A. それは確実に良いビートと、良いWeedがある時ですね。まあ、いっつもあるんですけど両方。だから、いつもですね。
Q. 素晴らしいですね。スランプとかは特になく?
A. いや、それはありますよ。それは。それしかないと思いますよ。基本。
基本はそうじゃないですか。創造するって、芸術って、何かを作るってのは絶対そんな簡単にいくことじゃないし、全てのことが。
超難しいと思うんですよ。
それを前提の上で、毎日曲作ってるっていう。だから常にスランプは当然だと思うんですよ。
(【舐達麻】”リリックの書き方/ビート選びについて”(後半)| HIP HOP DNA)
「創作活動に向き合う時は、常にスランプ。それは当然である」という彼らのスタンスに、私は非常に共感を覚えた。
このkobo-taroというアカウントを開設してから、一年と六ヶ月余り、一週間に一回はkoboくんと交互にコンテンツをリリースしてきた。この期間の中で、自分の思いや表現したいことを簡単に捻り出せたことは、一回たりとも無いと言っても過言ではない。だから、凄くシンパシーを感じたし、少し救われた。
いつも「うんうん」言いながら、題材をなんとか書き出す。その後は、文章を書いては消し、やっとの思いで一本記事を自分から絞り出す。そんなことの繰り返しである。
文章で表現を行うことを含め、何かを創造するということは本当に難しい。
空っぽの壺と、石
私も仕事柄、毎日文章を書くものの、それは無機質な文章であることが多い。なんらかの規程だったり、契約書だったり。誰が読んでも同じ解釈ができるような、まるで機械的な文章を大量に生産する。
しかし、Noteに自分の思いを綴る時、その行為は一変する。感情だったり、思考を辿りながら、有機的な文章を連ねていく。
そんな時、まるで自分が空っぽの壺のように思える時がある。自分の中に思いはあるのに、文章をいざ書こうと思うと出てこないのだ。koboくんのリマインドのメッセージが背中に重くのしかかりながら、なんとか下書き画面に単語を羅列していく。
そんな時、僕の場合は、ブラックコーヒーを飲み、アップテンポの音楽を少し大きめの音量で掛ける。段々と脳みそが活性化してくると、少しづつ書きたいことが形になってくる。
文章を書きながら、良く考えることがある。
それは「この文章は自分の想いを上手く表現できているか? / そして、誰かの心を震わせることができるのだろうか? 」という点だ。
この世界には沢山の文章が溢れかえっているし、文章に限らず、人の心に訴え掛けることができるようなコンテンツがごまんと存在している。その中で、私の文章が誰かの心に突き刺さることができたなら、それはとても光栄なことだと思うし、冥利に尽きる。
そういえば最近、イサム・ノグチというアメリカ人の母と日本人の父のあいだに生まれた芸術家が注目を集めている。
イサム・ノグチ《無題》 1987 イサム・ノグチ財団・庭園美術館(ニューヨーク)蔵(公益財団法人イサム・ノグチ日本財団に永久貸与)
彼は、晩年、石を中心に据えた彫刻を多く生み出した。その創作活動に関して、以下のような言葉を残している。
自然石と向き合っていると、石が話をはじめるのですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです。(イサム・ノグチ)
「石の声を聞き・"手助け"してあげる」というイサム・ノグチの姿勢は非常に興味深い。
彼は、石を彫るのと同じだけの時間、石に耳を傾けて過ごす...という姿勢で、創作活動を行っていたようだ。これは、彼が長年創作活動に向き合った結果、自分のスタイルとして確立したものである。
前述した舐達磨、そしてイサム・ノグチが人々を惹きつけて止まないのは、彼らには彼らなりの探求の過程及び哲学が存在し、それが作品にあらわれている点が根底にあるのではないかと私は考える。
私も、まだまだ探求の道の途中であり、そしてずっと迷っている。
それでも、私は
ここまでの部分に於いて、何かを創り出すことの難しさ、そして探求の旅路及び作品の根っこの部分に存在する哲学にこそ表現者と作品の魅力を生む点について記述してきた。
渾身の出来のものを創り出すことは、本当に難しい。
しかし、どんなに難しいとしても私は自分の思いをしたためるという行為を今度も辞めないと思うし、今後も続けていくのだろうと思う。
私にとって、自分の創作に没頭するということは、自分が空っぽの壺であることに向き合うという行為に他ならない。いわば、自分の「できなさ」そして「中身の無さ」に強制的に向き合わなければならない。
それは非常に辛いし、「常にスランプ」の中を歩いていかねばならない。でも、この一年六ヶ月を通じて、少しづつ、自分の文章が磨かれていることを実感するし、自分が書きたいことがちょっとだけわかってきた。
今後もコーヒーを片手に、探求しながら、コンテンツを作っていきたいと思う。
(taro)
p.s. そういえば、最近の作品の中で、比較的良く書けたと思っているものを以下に載せておこうと思う。是非読んでいただけると幸いである。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?