野暮なこと
みなまで書くことを野暮とした夏目漱石からしてみれば、随分と野暮なことをしているという自覚はある。これでも四五年前なら、『こころ』の先生の奥さん「静」の由来は乃木静子であろう、とだけ書いて解って貰えるつもりでいた。
しかし実際は、
つまり「静」の由来は乃木静子であろうってことは、わざわざ乃木将軍の遺書にフォーカスしておいて、軍旗の方に意識を振り向けてミスディレクションしているけど、本当は乃木静子には殉死の大義はないわけで、そこを日記では「神聖か罪悪か」って気に留めていたわけで……と野暮な話になる。落語の落ち、下げの解説をしているようなものだ。
しかし、ここまで書いても解らないのだ。伝わらないのだ。
そして人は自分の信じたいことしか信じない。
例えば東大の総長まで務めたあの蓮實重彦が頓珍漢な漱石論を書いていること、
江藤淳の手柄を掠め取り、稀代の知ったかぶりをしていること、そしてその江藤淳が『こころ』の話者の立ち位置を読み誤っていること、
こんな無茶苦茶な近代文学1.0に気が付いてみれば、近代文学2.0は野暮にもならねばなるまい。
この程度の読解力しかないものが威張っている現実にはいかにも救いがない。
しかしこれはほんの一握りの阿呆の問題ではない。
教師の教師が読み誤り、
馬鹿だけを再生産されるためのマニュアルが売られている。
これは冗談のような現実だが、現実を拒否しても仕方がない。だから私は、
野暮を続ける。
と云ってもこんなシンプルな事実を書き連ねているだけなのだけど。
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