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文学理論と文芸批評

文学理論と文芸批評


    今回ある思いがあって、評論を書き、ある文学賞に送ってみた。(笑) 今更ながら…。
 その方法論は二つの混交「読みに留まること」「文学理論の方法で文芸批評すること」だった。後者は「パラテクストとメタテクストの境界をたゆたう」と言い換えてもいいかもしれない。あるいは『絶歌』は『金閣寺』というテクストを変容させるか…。

 結論から言えば『絶歌』を真剣に読めば『金閣寺』というテクストは変容せざるを得ない。どのような間テクスト性も先行するテクストを変容させるのかといえば、決してそうではないと思う。しかし水村美苗の『続・明暗』のように出版社からほぼ「擬態」まで認められてしまえば、これはもう『明暗』の変容は避けられない。なんとウイキペディアの英語版では、水村美苗が未完成の『明暗』を完成させたことになってしまっている!

 あるいは『古池に蛙は飛びこんだか』に見られるような、一旦持ち出されてしまえば、それが無視できないような解釈によって、芭蕉のテクストはあっさり変容してしまう。

 逆に外部から余計なものを持ち込んでごてごてと飾り立てたトンデモ説は、原テクストを変容させることはあるまい。ただしそれは必ず読み手の読書量や読みの正確さ、あるいは論理的思考能力に左右されるものであろう。ある種の人々は夏目漱石の『こころ』のKは幸徳秋水、またはキング、天皇だ、などという噴飯ものの解釈に感心してしまう。Kが苗字ではないことに気が付かない人、不注意な人にとっては、このような噴飯ものの解釈に、作家とか、大学教授とか、芥川賞審査委員というパラテクストが加えられてしまうのだ。

 だからそうではない水準の読みを示し、なおかつ読みに留まること、「パラテクストとメタテクストの境界をたゆたう」と言いながら「文学理論の方法で文芸批評すること」で夏目漱石作品を高い水準で変容できたと思う。そしてまさにこれが自分と作品が出会う事、文学を読むことだというぐるぐる批評を書いてみた。

 作中では論じなかったがここに至るまでには宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が訂正を肯んじ得ないこと、そして定家の「駒とめて…」に関する蕉風的解釈を巡る逡巡があった。「日照り」が「日取り(日給払い)」だと知った後に「雨ニモ負ケズ」を読むと、そもそも原テクストという概念がぐらぐらしてしまう。そして『古池に蛙は飛び込んだか』の読後に定家の「駒とめて…」を眺めてしまえば、駒そのものが消えてしまう世界と陰がない世界のパラレルな衝突が見えてくる。

 恐らくこの問題は様々に形を変えて、論じられるべきであろう。私はまだその端緒にある。




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