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豊かな社会は「やってみたい」が尊重される社会

こんばんは。

僕は現在、児童館と就労支援の場で人に関わる仕事をしています。その中で、「豊かな社会ってなんだろう?」みたいなことに興味があり、近ごろは様々な書物を読んでいます。
ただ読むだけでは学びは深まらないと思ったので、備忘録がてらちょくちょくnoteに投稿していくことにしました。

本日読んだ本はこちらです。


『よみがえる子どもの輝く笑顔』(著 天野秀昭さん)

僕自身、子どもだけではなく社会で生きづらさを抱える若者と関わる機会が多いので、「これは子どもだけの話じゃないぞ!」と思いあっという間に読了してしまいました。その中でもいくつか気になったキーワードを今日は紹介します。

■善悪よりも快不快こそが大事

著者の天野さんは、『情動』という言葉が大好きでよく使っているといいます。「大好き」「イヤだ」「つまんない」「腹立つ」「悔しい」「うれしい」など、人間が日々感じている素直な感情です。『快不快』ともいいます。天野さんは、この『快不快』こそが人間が生き物である証だといい、動物が動物である証、つまり『自然』だといいます。

さらに天野さんは、子どもは社会的な価値観や規範意識を身にまとっていないぶん、それだけ生物的に『自然』だといえるといい、社会的な『善悪』に支配されていない彼らの『快不快』は、基本的に生物としての生命の欲求に基づいているといいます。

思えば、たしかにそうです。走る、叫ぶ、笑う、泣く、怒る、転がる、登るなど、子どもは社会的な規範などお構いなしで行動します。廊下を走るなと言っても走る、汚すなと言っても汚す、静かにしろと言っても叫ぶ。子どもの行為は、社会的な『善悪』とは相反するようです。

さらに天野さんは、子どもには自分の内から湧き上がる『情動』を周りの大人から受け入れられる経験が必要なのだといいます。「迷惑になるからやめなさい」ではなく、「それ、おもしろいね!」「その発想すてき!」と受け入れられる経験があると、その子の自分という存在に根が生えて、自分自身の『情動』に確信が持て、生きる自信につながる。その体験こそ、本人の「いのち」にとって唯一無二の体験になるのだといいます。

■いのちの主役は自分

天野さんは本書の中でこう主張します。そんな子どもの『情動』を抑えこみ、コントロールし、価値基準を均一化する今の社会こそが子どもたちから「生きる力」を奪っている原因なのだと。
子どもたちだけではありません。日々就労支援の場で生きづらさを抱えている若者と接していると痛感するしますが、「やってみたい」という『情動』を、親に、学校に、周りに、徹底的に押さえ込まれて、生きる力を失っていった人が、引きこもりになったり、精神を病んだりしているのだと、僕は思います。

「あれをしたい、『でも』危ないから」
「これをしたい、『でも』ルールでダメだと決まっているから」

それどころか、自分の意見を主張することさえできず、

「あれをしなさい」
「これをしなさい」と周りの価値観にがんじがらめにされて大人になった子どもって、きっと少なくないんじゃないかと思います。

そういう風に育てば、「いのちの主役は自分なんだ」と思うことができず、周りに合わせて、迷惑をかけないように、自分を押し殺して生きるようになるのは当然なことのように思います。そうしていつの日か自分の『快不快』がわからなくなって、それを次の世代に押し付ける大人になっていくのでしょう。

そうして社会はますます生きづらくなっていく。

「豊かな社会」を定義付けすることは中々できないけれど、僕は本書を読んで、「やってみたい」が尊重されない社会は、きっと「豊かな社会」とは到底言えないんだろうなと思いました。そして自分が尊重されないのならば、他人を尊重している余裕なんてないよなぁとも思いました。

本書では、『遊び』というキーワードが多く出てきて、子どもは『遊び』の中でこそ、そういう他者への尊重だったり、一人ひとりの違いだったりを体感し、学んでいくと主張しています。それを天野さんは『遊育』と呼んでいます。

それらについて、本投稿では紹介しませんが、機会があれば『遊び』についても書いていきたいと思います。

最近は『遊び』への興味が尽きず、個人的には『遊び』こそ人間の幸福度に影響するとまで思っています。

もっと勉強して、別の機会にまとめようと思います。

今日はここまで。
ありがとうございました!

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