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わたしの心を守ってくれる内省の思考法

自分がnoteで記すべきは、自己との果てしない対話の過程なのではないか。

その想いは日に日に強くなっていき、確信に変わった。


自分が書くべきこと、自分にしか書けないこと、自分が人生で成したいこと。
そんなことを考えていると、決まって、僕という人間の特徴は「内省」だという結論に至る。

逃れられない苦痛や辛い経験に、内省を通じて何らかの意義を見出すことで、僕は心を守ってきた。

「あの辛い経験も今の自分に繋がっているんだ」と自分を納得させることで、騙し騙しではあるが、心身ともに健康でここまで生き延びている。


幼少期に逃れようのない苦痛を経験をしたことが、心を守るために内省を行うきっかけとなった。以降、辛いことだけでなく、楽しいこと、日常の何気ない場面からも内省を行うことが習慣となり、特質に変わる。

この内省によって蓄積された考え方が、今の自分の思想や人生観を形成したことは間違いない。

ここまでの人生で育んだ思考は、自分の心を守るための必要に駆られて生み出されたものも多い。
そうして生み出された思考は、誰かの心の糧になるかもしれない。

こう考えると、育てた思考を自らの肉体に幽閉したまま人生を終えるのは、なかなか罪深いことなのではないか、そんな想いが日に日に強くなっていった。


内省したことを自らの思想で終わらせず、形として残していく。それが自分の使命なのではないか。

少々大げさだが、そんな気持ちを抱くようになった。


自己との対話の過程を文字に起こすというのは、非常に難しい行為だ。
書いたことが誰かに見られるとなれば、それは一層困難を極める。

まず、剝き出しの自分を晒す精神を持つ必要がある。
「この文章は誰かの目につく可能性があるのだ」という心の障壁は、無意識に自分の文章を制限する。


この障壁をどう乗り越えるか。

今の僕にできるのは「ありのままの内省の軌跡が、誰かの心を動かすかもしれない」という希望を持つことだけである。

自分の失敗や苦悩、不格好な部分を晒すことが、誰かのきっかけになれば。そう考えると、少しばかり文章を書くのが楽になる。


だが、こうして文字に起こすと、この思考はまだ障壁を取り除けていないことに気づく。

自分は誰かのきっかけになることだけを求めているのではない。
「自分の文章が何かの役に立った」という達成感を感じたいのだ。

「何かを成したい、感謝されたい」という願望が、自分が文章を書く原動力になっていることに改めて気づかされた。

自分の願望・欲望を晒すというのも、なかなか勇気が必要なことだなと実感する。


◇◇◇


少し話は変わるが「どうしてこんなに生きるのが下手なんだろうな」という感情が時折、浮かんでくる。


…が、「生きるのが下手」ってなんだ?
「生きる」とは動物的生存を指すのか、社会的生存を指すのか。

「下手」とは、具体的になにを指すのか。
経済面?精神面?それとも人間関係?

僕の思考はこのように、問いを無限に生み出す装置のように駆動している。


…と言えば聞こえはよいが、この思考の根幹には、
「どうしてこんなに生きるのが下手なんだろうな」という問いから目をそらしたい、という精神がある。

問いの焦点をずらすことで、心の逃げ道をつくる。これが、僕が日常的に行っている思考の根幹にあると思う。率直に言えば、無限に言い訳をしているのかもしれない。


しかし、どんなに無様でかっこ悪くても、この言い訳じみた思考は自分の心を守るために必要な思考法だった。
自分が歩んできた半生で編み出した、生き抜く知恵であることは確かな事実だ。

これまで病気や対人関係、家庭環境など、どうやっても逃れられない悩みに直面することが多々あった。今後も、命が尽きるまでどうしようもない悩みに直面し続けることだろう。

それは自分に限ったことではなく、人間はみな等しく、不安に囚われ続ける生き物なのだと思う。

どんなに安心して暮らせる環境を築こうとも、人はその中から不安を見つけ出してしまう。不安は人間が生存するための危機管理装置としての本能的な感情だ、という考え方で、今は自分を納得させている。


身体の不安も、金銭の不安も、人間関係の不安も、元をたどればすべて自分の生命を維持することに帰結する。

つまるところ、不安は人類が生存するうえで必要とした、人類に欠かせない機能なのだろうというのが、僕が抱く人間像である。

しかし誰もが知っているように、不安は危機を察知すると同時に、精神に大きな負荷をもたらす感情でもある。その負荷をうまく解消できなければ、自分を守ってくれるはずの不安に、逆に押しつぶされてしまうことになるだろう。


では精神的な負荷を和らげるためには、何をするべきか。
方法は数あれど、その根幹となるのは「他者との対話」であると僕は考える。

ここで想定している「対話」は、対面して直接会話をする行為にとどまらない。他者から刺激を受け、自分が触発される事柄全般を対話と呼ぶことにしたい。

本を読むこと、インターネットの言葉に触れること、映画や美術を鑑賞すること、人と会うこと。
これらの行為を行うと、他者の感性に触発され、何かしらの感情の変化が訪れる。

共感、感動、賞賛、嫉妬、怒り…。
それは限りなく微細な心の動きかもしれないが、複雑に絡まり合って心に変化をもたらし、不安による精神的負荷を和らげる一助となるだろう。



つまり何が言いたいのかというと、自分の書く文章が「対話の材料」になってほしい、ということだ。

顔を合わせたこともない、今後顔を合わせるかもわからない一人の人間が創造した文字列が、現実に生きる誰かの生に影響を与える。
これはとても不思議で、素敵なことだと思う。


そして、自分というどうしようもなく不器用な人間ができることといえば、現状、それくらいしか思いつかないのだ。

これまで、自分なりに様々な道を模索してきた。
だが現状その答えは見つからず、自分が何をすべきなのか、今後何をすれば生きていけるのかがわからなくなってしまった。


今の自分にできることは、鳥海かなとという一人の人間の小さな悩み、そこから逃れるための思考の軌跡を赤裸々に晒すことくらいだ。

幸い、自分と全く同じ経験・思考をした人間はこの世界には存在しない。
少なからず、オリジナリティのある作品を残せるはずだ。

もし自分が書かなければ、この文章を書ける人は二度と現れない。
そんな気持ちを胸に、文章を残していきたいと思う。


場所や時間を超えて、一つの肉体ではとても出会えない数の人と対話ができる。これは文章の素晴らしい特質だ。

この世界を生きる誰か、未来に生きる誰かと、実りのある対話をするために。

今の自分ができる最大限の貢献だと思って、自らの思考を書き残していこうと思う。


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