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2023年映画感想No.80:辰巳 ※ネタバレあり

『ケンとカズ』から通底する小路監督の真摯な資質

クラウドファンディングコレクター限定試写にて映画美学校試写室で鑑賞。
小路監督は前作の『ケンとカズ』から引き続き自主制作体制でのクライムサスペンス映画という同じ方向性での映画作りを選択。『ケンとカズ』の批評的成功に手応えがあったのだろうし、その作り方だから出来る質の高め方を本作でも突き詰めている印象があった。
まずは映画としてのルックのレベルが『ケンとカズ』同様にとても高い。どのショットも構図に対する意識が高く、セリフ回しや見せ方にもちょっとしたアイデアや一手間が感じられる。おそらくはお金がないぶん時間をかけて作っているのだろうけど、その「少しでも面白く見せよう」という意識の高さが映画全体の質を底上げしている。自主制作という監督自身が作品のクオリティコントロールを引き受けることの責任としてきちんと真摯で妥協が無い製作過程が出来上がった作品から感じられるからこそ僕は小路監督を尊敬している。
一方で前作の『ケンとカズ』がまるで主役の二人のギラギラした存在感と重なるように作品自体が「突然現れたヤバいやつ」として観客にとっての嬉しい発見になったことと比べると、顔のある役者さんの顔ぶれや置きに行った題材に対してフレッシュさという点ではどうしても後退した印象も感じてしまった。そしておそらくそういった作家としての幅は今後の仕事の課題として監督自身も捉えている部分だとも思う。

ヤクザがスタイリッシュではなくなった時代の物語

役者の顔のチョイスも相変わらず素晴らしいのだけど、前作に比べるとネームバリューが上がっているところに監督としてのステップアップも感じられた。
『ケンとカズ』も人の描き方、場所の描き方がそのまま世界観のリアリティになっていたけれど、今回も「そこをそう切り取るか」というロケーションや裏社会特有の言葉遣いやボキャブラリーが作品の面白さになっている。MC漢のアルバムを聴いてる時の感じを思い出したりした。
裏稼業が全くスタイリッシュなものではなく、金にならないし手は汚れるしで登場人物たちにとってはしがらみでしかないという描かれ方も『ケンとカズ』の眼差しと近い。出てくる人物はみんな裏稼業だけでは食えずに肉体労働で生計を立てていて、裏社会に生きることが社会的立場の低さとして描かれている。だからこそ目先の金くらいしか状況を良くする要素が無いし、どうにかする手段は暴力しか持たない。

主人公辰巳の根底にある父性の欠落

映画は主人公辰巳が藤原季節演じる弟との最後のやりとりを回想する場面から始めるのだけど、行く末は破滅しかない、という彼らの世界で生きることの悲哀を見つめるような場面になっている。
この兄弟はロールモデルたりえる大人の存在を持たないまま二人だけでここまで生きてきたのだろうし、だからこそ父親代わりになりたかった辰巳とそれでも人生を棒に振ってしまう弟のすれ違いが切ない。暴力しか言葉を持たない辰巳がそれでも不器用に弟を救おうとするのだけどそのなけなしの良心は否定されてしまう。
辰巳はそうやって弟を救えなかった経験という「父性の欠落」を抱えた人物であり、映画のファーストカットで彼が見つめているオンボロの車はそれを象徴している。

野性的な狂気を持つ殺し屋造形のフレッシュさ

続く場面の殺し屋コンビ沢村兄弟の弟・竜二(倉本朋幸)が足立智充を殺すシーンがバイオレンス映画としての本作のかましになっているのだけど、竜二のイカれ演出がすごい怖くて良かった。よだれ垂らすところの頭のネジが飛んでる感と後ろ側に回り込んで画面外に見えなくなる演出の不穏さ。演じている倉本朋幸さんは普段演出をされている人とは思えないほどの強烈なインパクト。
続く場面の「何をするかと思えば死体処理」という興味を引き込む見せ方も上手い。黙って仕事をする辰巳に対して竜二が何するかわからないテンションでブチギレ続けるのもハラハラする演出で引き込まれる。感情を押し殺す辰巳と直情的な竜二という対比的な構図もよかった。
佐藤五郎演じる兄貴分や松本亮演じる沢村兄弟の兄・タケシが結構何度も「やめろ!」って注意するのに全然やめない竜二が怖い。自分を抑えられない、という種類のヤバさを「何言ってもわめき続ける」という形で演出しているのが新鮮だった。

序盤のやや複雑な構成

映画の序盤は複雑な事態、複雑な人間関係をやや入り組んだ構成で描いていて、中々混乱する情報量の多さ。足立智充が処刑される場面、死体処理の場面、山岡の整備工を訪問する場面、森田想の相談を受ける場面とそれぞれが新しい情報を説明する場面になっているうえにそこでの説明が少し後の場面で出てきたりするのでどんどん状況が複雑になっていく。
特に観客は劇中の辰巳たちと違って出てくる人たちのキャラクターや関係性を把握していないので、どんな事態が起きていて出てきた人はそこにどう関わっているのかを整理しながら見るだけでも結構大変だし、さらに一見それとは関係がない森田想演じるアオイ側の話が膨らんでいったりするので誰が何をしようとしているのかを覚えておくだけでも中々混乱した。

壊れかけのイノセンスとなけなしの良心の邂逅

アオイもまた行き場がなくこの世界にたどり着いてしまった人間であり、怖いもの知らずで危うい。ままならない人生を前に自暴自棄になりかけていて、辰巳はそこに自分の弟を重ねている。非情になりきれない自分自身に戸惑い、葛藤するような辰巳の眼差しが切ない。
組のシャブを抜いていた山岡が沢村兄弟に殺されるところに鉢合わせてしまってアオイは追われる身になる。辰巳も成り行きから逃亡を手伝うことになるのだけど、彼の良心に逆らえないという葛藤がなんだかんだ車に乗せてしまうという形で描かれているように感じる。
また序盤に亀田七海演じるアオイの姉・京子とアオイの関係を少しだけ描きこんでいる点も後半の展開に効いている。アオイがなんとか一人で生きれる人間になって欲しいという京子の切実さが少ない描写からしっかり浮かび上がるのだけど、辰巳は大切な関係だった京子からその母性的役割を引き継いでいくようでもある。

男性的な世界で生きることしかできない人物という悪役

アオイを取るか、組織を取るかで辰巳は人情と非情の狭間を揺れるのだけど、佐藤五郎演じる"兄貴"にゲイセクシャルを匂わせる場面があることで悪役として辰巳に対する複雑な愛憎を感じさせるキャラクターになっている点が素晴らしい。アオイと辰巳の擬似父娘の繋がりに対して"兄貴"の感じている辰巳へのブロマンスが対比的な構図になっていて、だからこそ暴力でしか人と繋がれない弱くて愚かな男性性が悪役の設定として必然に感じられる。
思えば"兄貴"は映画の序盤から辰巳を「自分とは違う人間」として理解しているのだけど、だからこそヤクザ世界のホモソーシャルな繋がりでは彼を引き留められない。わかっているけれどそうすることしかできないことが"兄貴"の哀れさとして感じられる。

ここではないどこかに生きる願いを託すラスト

アオイが竜二を刺し殺してしまうのはあまりにも彼女にとって取り返しのつかない経験のように見えて、果たしてそれで良かったのだろうかと思ってしまった。ただ、辰巳が自分の命と引き換えにアオイを明るい世界に開放してあげるラストが素晴らしい。"兄貴"も辰巳の頼みだからこそ最後にその優しさを尊重しているようでもある。
かつて救えなかった弟は動かない車の中で死んだ。だからこそ救うことができたアオイがその車で走り出すラストカットに余韻が込み上げる。

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